三島由紀夫と保田與重郎、そしてファシズム」
        ヴルピッタ・ロマノ氏
(京都産業大学名誉教授) 

1.イタリア民族派における三島評価
今年はムッソリーニによる「ローマ進軍」から90周年という節目の年である。当時、イタリア国民の抱いた大きな夢、国家の夢というものは、形や表現は違うにせよ、三島由紀夫も抱いていたものである。
それについて、私の考えを述べていきたい。
イタリアで三島由紀夫は民族派の間で人気がある。なぜ、三島は民族派の英雄になったのか。三島の著作が最も多く翻訳されているのはイタリアであり、今でも新刊・再刊が相次いでいる。三島に関する講演会や映画の上映会、三島の著作をもとにした演劇の上演、「憂国忌」など、数多くのイベントが開催されている。
2009年11月には映画「憂国」が上映され、その際、私は「三島由紀夫と日本浪漫派」と題して講演した。今年3月には『英霊の聲』を他の作家がアレンジした演劇がローマで上演されている。

三島は民族派(ネオファシスト)のうち、特に若者に強い人気がある。彼らにとって、三島は文学者というよりも行動家・思想家として高く評価されている。日本の伝統文化の価値観に殉じた英雄として崇拝され、サムライとカミカゼの国である日本を象徴する人物の一人として位置付けられている。

このように三島が理想化された人物になっていることは、イタリアのネオファシストが三島に共有の価値観があると感じているからである。
この事実をもとにして三島とファシズムの関係、三島文学における理想とファシズムの価値観の接点について論じていくことにしよう。
2.三島のファシズム観とは
もともとイタリアのファシストたちは戦前から日本に大きな憧れを持っており、今でも旧同盟国として日本に好感を抱いているイタリア人は多い。
1943年9月、イタリアのバドリオ政権は連合国に無条件降伏するが、多くのイタリア国民は同盟国と共に戦争を継続することを望んでいた。ムッソリーニはドイツ軍により解放され、イタリア社会共和国(RSI)の指導者になるが、この時、共和国に参加した人々とその子孫の間で日本への憧れが強い。

イタリアと日本でも三島を日本的ファシストの典型と見る傾向は強い。三島文学におけるファシズムの問題が最初に取り上げられたのは1962年の『美しい星』発表時であり、日本共産党の機関誌『前衛』では三島をファシストとする批判記事が掲載された。この作品には知識人を餓死寸前の極限状態に置くことで、野性的人間に戻すという内容が含まれていたため、当時、三島に対しては反知性的な姿勢と一種の残酷さからファシストないしはナチという指摘がなされたのである。その後、三島ファシズム論をめぐっては一年間ほど論争が続いたが、その後も日本や外国では三島をファシストとする見方が残っている。その理由は彼の愛国主義、天皇主義、軍国主義、反共的な姿勢、それに文学作品にも表れている民主主義への疑問にある。

では、実際の三島はファシズムとどのような関係があったのか。三島は学生時代にムッソリーニを高く評価しており、特に1940年代の日記にはムッソリーニへの言及が多い。その後、1968年に戯曲『わが友ヒットラー』を発表していることから、確かに三島はヒトラーにも興味があったが、それだけで彼をファシストと断定することには無理がある。私はむしろ文学者である三島がダンヌンツィオに惚れていたことを重要視している。ダンヌンツィオはファシズムの思想・価値観の形成に大きく貢献した詩人であり、三島が彼に共鳴していたことは、間接的であるにせよ、三島自身がファシズムの価値観に興味を持ち、影響されていたと言えるだろう。


3.ファシストを惹きつける共通の言語
前述のように、三島がファシスト視されているのは愛国主義、天皇主義、軍国主義という点にあるが、これは表面的なものにすぎず、政治思想としてのファシズムを軍国主義的かつ反動的暴力と捉える先入観に由来するものである。ここでは三島文学の特徴とファシズムの価値観について話しておきたい。

政治面からファシズムの議論をする場合、ファシズムの定義という大きな障害にぶつかる。ファシズムの定義はまだ確定しておらず、ファシズムとはどのようなものであるかをめぐっては政治学と思想史で大きな争点となっている。

私が思うに、ファシズムの解釈はファシストたちの数と同じであり、皆が自分自身を純粋ファシストと思っている。三島文学とファシズムの価値観を論じるにあたっては、政治思想としてのファシズムではなく、彼の人生観と価値観、世界観を分析しなければならない。
たとえば、三島の著作を見ると、『仮面の告白』や『金閣寺』は思想的姿勢と関係なく左翼からも高く評価されているが、『憂国』、『英霊の聲』、『太陽と鉄』のような作品はなかなか理解されず、拒絶されている。しかし、こうした『憂国』などの作品はイタリアだけでなく、どの国の民族派も共鳴している。特にイタリアのネオファシストたちは『若きサムライのために』、『葉隠入門』といった系統の著作を直感的に理解している。これは思想よりも言語の問題であり、ネオファシストにとって、三島の使っている言葉には共通の言語があるためである。

重要なキー・ワードの意味とその言葉を包含する感情的内容は各人によって異なる。たとえば、「祖国」、「民族」、「犠牲」、「英雄」、「行動」、「歴史」、「軍隊」といった言葉は思想的な姿勢によって理解の仕方や反応が変わってくる。しかし、三島やイタリアのファシストたちの場合、これらの言葉を理解していた。私は晩年の保田與重郎と会った経験がある。年齢や文化の違いはあったが、さきほど述べたような意味で保田の言葉は理解できた。言語、すなわち、重要なキー・ワードには感情的内容があり、どのようにして世界や人間、生活を見るかという世界観を表す。言語が共通すれば、その言語の裏にある世界観や共通の価値観を示唆することになるのである。

4.「ローマ進軍」の画期性
現在、ファシズムは悪魔視されているが、これはある意味で言語の問題である。ファシズムという言葉は悪い意味を与えられ、内容が変わってきたという点で、言葉の二重性を表す典型例となっている。そして、現在では悪い意味合いがほぼ全世界に定着したと言ってよい。この事実は左翼のインテリや政治家が「言語の戦争」に勝利したことの明白な証拠である。ファシズムにとどまらず、やはりマスメディアには左翼の用語が浸透しており、左翼のインテリは自分の言語を言論界に押し付けてきたのである。

たとえば、「右翼」は一般の言論界で悪い意味合いを帯びているが、「左翼」は違う。「保守」のイメージはよくないが、「革新」にはいいイメージがある。左翼は執拗に自分の言語を全世界に通用させることで、その言葉の包含するイメージも通用させてきた。

今、「ファシズム」は罵倒に近い言葉になっており、拡大解釈され、濫用されている。「アメリカの政策はファシズムである」、「スターリンはファシストである」、「アルカイダもファシズムである」など、相手を悪魔として見たい時、ファシストというラベルを貼っているのである。こうしてファシズムは本来の意味を失うことで、実際は何も意味しないものになってしまったのである。

しかし、ファシズムという言葉は必ずしも戦前は悪魔視されていなかった。ファシズムに対しては色々な考えがあり、そのイメージは時間が経つごとに変容してきたのである。当然、左翼はファシズムという言葉に早くから反動と独裁という悪いイメージを持っていた。1920年代からファシズムという言葉は濫用されており、イタリア共産党は自分たちに反する勢力を敵視し、「社会党のファシズム」という表現を用いていた。その後、ファシズムに関しては、ムッソリーニ政権が登場してイタリアの政治と経済を安定させ、イタリアは国際的立場を向上させたという側面もあった。

そして1930年代になると、全世界ではファシズムが世界新秩序の創立につながるという期待が生まれ、各国でファシスト党が結成されたのである。

冒頭に述べたように、今年は1922年10月28日の「ローマ進軍」から90周年であり、当時、ムッソリーニによる政権獲得は世界に大きな反響を及ぼした。第一次世界大戦中、ロシアに革命が起こり、初の共産党政権が誕生した。
一時、共産党はハンガリーでも政権を握り、ドイツやイタリアでも影響力を拡大した。このように世界中が赤化の可能性と革命の脅威を感じる中、イタリアのファシストたちは左翼の脅威を排除し、ロシア革命やフランス革命と異なる新しいタイプの革命を起こしたのである。これこそ「ローマ進軍」の画期的意義である。

ファッショ運動の始まりは1919年の「戦闘ファッショ」形成であり、彼ら黒シャツ隊は3年間という短期間で社会党・共産党といった左翼勢力を制圧し、政権を獲得するまでに勢いを拡大させた。
ムッソリーニは1919年の選挙で約5000票しか得られずに大惨敗したが、1921年の選挙ではミラノとボローニャでそれぞれ10万票以上を獲得し、第一位となった。こうした現象は私たちを心強くさせるものであり、もしかしたら現在の日本も3年間で完全に変わるかもしれないからである。いずれにせよ、「ローマ進軍」は暴力によって国民を抑圧したのではなく、むしろ国民の支持によるものであった。


5.昭和初期のムッソリーニ・ブーム
それでは日本の反応を見よう。「ローマ進軍」以前から日本にはファッショ運動への関心と好意があった。「ローマ進軍」の約2ヶ月前には日本の3名の代議士がローマでムッソリーニと会見している。

また、荒木貞夫大将の日記にもファシズムに好意的な記述があり、民族派も大きな刺激を受けた。国家社会主義者・高畠素之は「ローマ進軍」の報道に接して興奮し、酒宴の席上で「ムッソリーニ万歳」を叫んで暴れたという逸話が残されている。日本でも黒シャツ隊が結成されるなど、イタリアの黒シャツ隊をモデルとする運動やムッソリーニ・ブームが起きることになる。

昭和初期、日本の経済と政治が低迷していく中、ムッソリーニの人気が高まる。世界大恐慌期、全世界でムッソリーニ・ブームが生まれ、日本でもムッソリーニの出現が待望されるようになる。

ムッソリーニに関する出版物が学術的・大衆的なものも含めて多く刊行され、子ども向きの西洋偉人伝にもムッソリーニが登場するようになる。ムッソリーニに関する映画も製作され、ムッソリーニにちなんだ演劇も上演された。1928年には東京・明治座で「ムッソリーニ」と題する歌舞伎が上演され、当時の人気役者である市川左團次がムッソリーニを演じて大評判となった。こうしたムッソリーニの人気は1920年代だけではなく、終戦まで続くことになる。

この人気のもとになったのはムッソリーニのカリスマであり、そして、貧乏な出自から一国の首相になったムッソリーニのストーリーであろう。このような人間のロマンスさがあったからこそ、彼は西洋偉人伝にも取り上げられることになったのである。

ただ、これらの要因と並んで、多くの日本人が彼の提唱する思想に共鳴していた。ムッソリーニ自身は、「日本にはファッショ党はいらない。日本人は生まれ付きでファシストだから」と述べている。少し過剰な表現であるが、ムッソリーニも日本の文化や価値観に共鳴し、高く評価していたのである。そう考えると、三島も生まれ付きのファシストだったのであろうか。


6.行動の文学としての三島文学
文学の観点から、三島文学とファシズムの共通点を探ってみよう。三島文学を一言で表現すると、行動の文学である。特に後期の作品になると、その傾向が強い。前期の小説を見ると、いずれも主人公はやはり行動的である。全般的に見て、三島文学は知性的というよりも行動的である。ファシズムが行動を重視するのと同様である。

ファシズムを哲学的に整理した20世紀イタリアの哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレは「行動(行為)の哲学」を提唱した。彼によると、人間の思考は行動(行為)をもって初めて自己認識し、自分の存在を実現するという。ファシズムが行動の政治学とも言われるのは、このためである。
ムッソリーニはしばしばレーニンと比較される。ムッソリーニの政治論、党組織論はレーニンと共通性があるとされており、レーニンの秘書であった女性はムッソリーニと交際していた。彼女はムッソリーニにマルクス主義を解説しており、その点でレーニンの間接的な影響があったと言える。
ムッソリーニとレーニンの共通点は、組織が少数のものであり、その少数が大衆を指導する、という考え方にある。だだ、両者には根本的な違いがある。それはレーニンの場合、エリートとは知識人であると考えていたのに対して、ムッソリーニの場合、エリートとは行動家であると考えていた。

一方、ムッソリーニと三島由紀夫の共通点は人間を英雄として考える点にある。前述のように、三島文学の主人公は行動家・英雄であり、とにかく個性が強い。人間の在るべき姿は英雄であるという発想に立っており、ファシズムの特徴もそこにある。マルクス主義と自由主義は物質的条件を重視し、人間が経済や環境によって左右されると考えているのに対して、ファシズムはそうした考えを完全に拒絶する。ファシズムは人間の意志を重視し、人間が自分の意志で環境を支配すると見る。つまり、人間は自分で自分の運命を決めるのである。

またもう一つの共通点は伝統と血統の重視である。マルクス主義の言うように、人間は今日という時間的環境の中に孤立した存在ではない。人間の裏には過去がある。人間は歴史の所産であり、過去から受け継がれてきたものを未来に伝えようとする。これは三島の考えと同様である。人間は無意識的にも過去の蓄積の結果であり、将来にわたって継続する。これが伝統であり、物理的に見れば、血統ということになる。だからこそ、保守派・民族派は伝統を重視するのである。そして、三島に大きな影響を与えた日本浪漫派はこの伝統だけではなく、血統を重視していた。

そして、こうした伝統と血統こそ、個人としての人間が共同体の構成員となる上で重要な意味を持つ。伝統とは共同体の基盤であり、この伝統がなければ人間は孤立したものになってしまう。だからこそ、人間は共同体で自らのアイデンティティーを追求するのである。この点で伝統と血統はアイデンティティーの源泉となっていく。三島も「文化防衛論」でこうした問題をはっきり意識していた。人間が社会の中でアイデンティティーをもって成り立つのは伝統があるためである。

現在、世界を標準化しようとする傾向の中で伝統は悪として否定されている。伝統に基づく各国の習慣、地方の違いはグローバリズムを妨げるものとして消去されつつあるが、これは個人の否定につながるものである。伝統の防衛は文化の防衛であり、最終的に伝統はアイデンティティーの源泉として自己の防衛にもなる。

なお、伝統と革新の関係であるが、伝統という言葉にはいい意味と悪い意味がある。伝統は単に過去の旧習の墨守であってはならない。それでは国民のエネルギーや創造力の足かせになる。あくまでも伝統は過去との連続性を念頭に置き、現在を一新して将来の基盤を形成するものでなくてはならないのである。


7.創造力の源泉となるために
20世紀初頭、イタリアでは未来派という大きな文化運動が起きた。未来派は古典と伝統の破壊を提唱し、その影響は文学や絵画、建築、料理など、すべての分野に浸透することでファシズムの形成に大きな影響を及ぼした。イタリアファシズムの最初の基盤を作ったのは元イタリア社会党の一部や元軍人、それに未来派の人々であった。
日本で伝統について正しい観念を持っていたのは保田與重郎である。保守は革新の母でなければならない、と保田が主張したように、単に過去を保つだけであれば伝統自体がなくなり、マンネリ化してしまう。

伝統は革新の母であるという観念はファシズムにおける革命の観念でもあると言える。三島も行動をもってこの発想を表明し、伝統の重要性を提唱したが、彼は現代人として自分の時代を生きた。三島は西洋文化・西洋文学を完全に吸収し、それを日本の伝統に導入した。そして、両者を見事に調和させた点で西洋と日本を調和させた人物であった。『近代能楽集』はその象徴的なものである。彼は自らの文学で日本民族すべての歴史的経験を総合したのであり、これこそジョヴァンニ・ジェンティーレが提唱した「民族的ジンテーゼ」に相当する。文明開化以来、日本が受け入れた西洋文化も日本民族の経験であることを認めた上で、それを誰よりも「日本化」したのは三島であろう。元来、ファシズムは「民族的ジンテーゼ」であり、ムッソリーニは左翼から出発し、すべてのイタリア国民の経験を総合することで新しい思想を成立させた。このように「民族的ジンテーゼ」は歴史の正しい理解から始まるのである。


8.保田と三島における歴史の捉え方
保田について、福田恒存の論文には次のようにある。この論文を実際に執筆したのは西尾幹二氏と言われているが、そこには保田の功績として、西洋文学に馴染んでいた昭和の読者たちにも古典を分からせてくれた近代的センスがあった、と述べられている。保田は幼いことから日本の古典に親しんでいたが、西洋文化の教育も受けていた。彼はその経験を日本文化に持ち込むことで、一つのジンテーゼとしたのである。

なお、保田について面白い逸話がある。戦前、彼はほとんど洋服を着ていたが、戦後は和服に切り替えた。彼は戦前、日本に西洋の精神を導入すべきと考えていたが、むしろ戦後は日本文化の防衛を第一義と考えていたのであろう。
保田の文学は歴史そのものであり、彼は万葉集以前から始まる一筋の道を日本文化に描き、それを正当な道であると主張した。そして、こうした正道だけでなく邪道も容認した。正も邪も国民の歴史的経験である以上、邪を否定したら国民の歴史は成り立たなくなると考えていた。こうした保田の立場は「民族的ジンテーゼ」に基づく一つの歴史観と見るべきだろう。

同様に三島も歴史を意識し、「歴史と伝統の国」としての日本を提唱した。実際、1941年発表の『花ざかりの森』では歴史と血統が表れているが、それ以降の著作では歴史的意識というものは表れていない。三島の歴史観は現在に集中する面が多く、『豊饒の海』で表れたように、彼にとっての歴史は一世代のスパンであり、あるいは現代と深いかかわりがある幕末までである。

その反面、三島は戦後日本の教育に浸透していたマルクス主義の史的唯物論に対して批判的であった。史的唯物論は自由主義と同じく決定論に立脚し、決まった歴史の規格の中に人間を束縛する。これに対してファシズムは人間の自由な意志の結果として歴史を捉えており、三島も同じ立場であった。三島が史的唯物論を批判したのは、歴史は物理的なものではなく、「民族の精神史」でなければならない、とする考えがあったからである。

歴史に終わりはないが、始まりはある。歴史の始まりこそ、民族の源泉のシンボルである。民族の源泉に回帰することは、世界の民族派共通の政治的神話である。日本における建国の時代、イタリアにおける古代ローマの時代がそれであり、いずれも精神の理想郷である。

民族派は自らの思想の将来像を過去に求めるが、その過去は具体的過去ではなく理想化された過去である。そこにはマルクス主義や自由主義といった決まったモデルはなく、一つの理想的価値観だけがある。すなわち、民族の源泉という想像力に戻ろうというものであり、これこそがファシズムの重要な特徴である。過去とは民族意識を形成、強化するための手段であり、そこから共同体は成立する。保田の場合は神道の手ぶりを重視することで、天上の祖型を地上に復元したのである。

三島の場合、『花ざかりの森』には民族の神話や歴史が表れているが、それ以降の作品を見ると、こうした民族の源泉にはあまり触れていない。
むしろ彼の小説に表れるのは、理想に束縛されない人間の姿を追求しようとする試みである。三島は人間の原始的姿、すなわち、理性の否定としての本能を追求したのであり、1959年刊行の『鏡子の家』はその一つの節目であったと思う。
しかしながらファシズムは本能よりも直感性を重視する。本能とは理性を否定するものであり、直感とは理性や合理性を超越するものである。政治心理学者が指摘するように、イタリアのファシズムの本質が「直感」であるのに対して、ドイツのナチズムは「本能」を提唱する。三島は若い頃にムッソリーニを評価していたが、のちにヒトラーを重視するようになる。これは三島自身が直感から本能に転換したからであろうか。この点は興味深い課題である。


9.死への憧れ
日本浪曼派の特質として「死への憧れ」が指摘されている。三島文学でも死は一貫した考え方である。ファシストにとっても美しく死ぬことへの憧れは強く、ファシズムの文化は死の文化と言われる。1920年代のイタリア空軍の軍歌では、死は女性として擬人化されており、「死に会ったら口説いてみろ」という歌詞がある。このように死を愛する風潮はイタリアでは広く見られるのである。したがって、感情の点から見ると、死への憧れは日本浪漫派、三島文学、ファシズムにおける最も大きな共通点だろうと思われる。しかし、死への憧れは決して自滅的な観念、自虐的な姿勢によるものではなく、むしろ死を超越しようとする積極的な姿勢である。これは死を以って自分の存在に意味を与え、死を以って自分の理念を正当化するものである。三島の最期は何よりもそのことを証明したものであった。

ファシズムに加担したイタリアの詩人エズラ・パウンドが米軍に逮捕された際に述べたように、「思想のために死ぬ覚悟がなければ、或いは人間は卑怯であり、或いは思想に価値がない」のである。死を覚悟することは自分の死を正当化することである。三島は「生命尊重以上の価値」を提唱して自決したが、イタリアでも1945年の敗戦時、約10万人のファシストたちが左翼勢力に処刑され、思想に殉じた。ファシスト党トリノ支部長ジョバンニ・ソラーリは処刑直前の1945年4月29日付で妻に宛てた手紙で次のように述べている。

「誠実に生きたように、誠実に思想に殉ずる我が思想はイタリアを再建と蘇生へ導くよう。自由なイタリア万歳! ムッソリーニ万歳!」。このようにしてジョバンニ・ソラーリは潔く死に向かったのであり、私は処刑直前の彼の写真を見て、やはり日本の終戦時に壮烈な自決を遂げた蓮田善明の「死を自分の文化にする」との共通性があるとの印象を強く受けたのである。

From:(文責 三島由紀夫研究会事務局)
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