2012.04.20 草莽志塾
19日草莽志塾で保坂正康講師の「昭和の教訓、国家指導層の人材枯渇は悲劇をもたらした」―その教訓をいかに生かすべきかーを受講しましたのでその感想

1、昭和元年から11年の2・26事件までのⅠ期と16年10月東條内閣誕生と終戦までのⅡ期の『人類史の体験』を戦後の左翼の幻想で我々は欠落したこと。
2、官僚主義の跋扈は政治家しか克服出来ないが故に下記の五種の害虫を駆除する政治家を選ぶこと。
組織に巣くう五種の害虫(韓非理論)
“人民は権勢に服しやすく、義になつく者は少ない”
1、守株待兎
2、仁義や雄弁で国は保てぬ
3、仁義の理論に矛盾あり
4、私的行為はびこり公利滅ぶ
5、公利と私利は矛盾対立する
「国家の藩屏の頽廃 源田 実」出口草莽志塾塾頭掲載了承
From: 草莽の記(杉田謙一)2008.07.07
源田実論  出口吉孝氏 寄稿
北海道にお住まいになる出口吉孝先生はわたしが尊敬申し上げる憂国の士であります。先生が書かれた「源田実論」。ご存知の通り、源田サーカスで有名な零戦のり。戦後は国会議員としても活躍されました。しかし、出口先生の源田論。厳しき論であります。しかし、この国を振り返る意味で是非考証しなければならない人物。

 私個人は政治家として戦っていた源田氏に尊敬の念を持っていたのでしたが。
 特攻も、その精神の気高さに心洗われ、涙して遺書を読み、いかなる国のどの兵士よりも尊く高貴な存在であると確信していた。たとえ特攻がならずして、生を与えられたものも、その分において最善をつくし、国のために奉仕するのが、同志への誓いであったろうと思う。鶴田浩二しかり。

 当時、ご英霊が批判され「犬死」としてさげすまれるのに我慢がならなかったし、その世情を打破するために私ども学生の日々があった。身を捨てて日本とアジアの星となられた方々に絶大なる尊敬感謝の思いをいだきつつ。特攻は日本精神の結晶であると感じていた。

 大西瀧次郎の「特攻の英霊に申す。」の遺書があれば、それで特攻英霊は救われたと思った。裏切り卑怯未練なものがでようと一人の真実を見る目を持つ方に、陛下に、理解していただけるならばそれで兵士は満足であったろうと、今でも思う。

 たとえ無念の思いで死を賜った将兵の御霊も、大西瀧次郎一人の従容とした死の受け入れに涙をもって応えたのではなかったろうか。宇垣纏第五航空艦隊指令長官は自らを特攻の兵士として最後の特攻をなした。武士である。非常なる命令を出しておいて自分が生き延びるわけに行かぬと。一人特攻に出ようとするも部下十一機が列を成す。部下は命令違反とされてもついていくと主張して聞かぬ。玉音放送のときのこと。

 出口氏の論はこの感情を踏まえた上でしかもその上位に立ち、武人として国家の藩屏として立つべき人材の心構えを問う貴重なる論と判断し、掲載させて頂きました。


特別寄稿 国家の藩屏の頽廃  源田 実  出口 吉孝氏

大東亜戦争は日本海軍のハワイ真珠湾奇襲で始まったが、ハワイの米太平洋艦隊を壊滅させた帝国海軍空母部隊は、一人の航空参謀の影響力から、別名「源田艦隊」と言われた。末期の特攻作戦を含む日本海軍の海航空戦を今次大戦全期にわたって指導したその男の名、源田実である。
 源田は明治三十八年(一九〇四)広島生まれ。海軍兵学校を二三六名中十七番で卒業し、海軍中尉のとき航空に転科して戦闘機を専修する。アクロバット飛行を得意とし、「源田サーカス」とマスコミに報じられるほど飛行技術に秀でていた。昭和十二年海軍大学校を首席で卒業。瀬島と同様、恩賜の長剣を拝領し、将来を約束された源田は、緒戦のハワイ作戦の第一航空艦隊司令官南雲中将の下で作戦参謀を務める。同司令官が砲術出身であったため、作戦の実質的采配は源田が振るったという。大敗したミッドウエー海戦では実務上の責任者であったが、その五ヵ月後の昭和十七年十一月に大本営海軍軍令部の航空担当参謀に栄転、以後昭和二十年五月に松山三四三航空隊司令に転出するまで、大戦の全期にわたって海航空戦の作戦立案・指導に当たり、戦闘機出身ながら、攻撃兵力増強主義により大西瀧次郎らと戦闘機無用論を主張するなど帝国海軍の航空第一人者と目される。
 その実態は、昭和十九年十月台湾沖航空戦において戦果大虚報という隠蔽工作をなした海軍側の張本人である。源田は戦果確認のため実践部隊の司令・参謀を東京に招致して自ら聞き取りを行っており、虚報戦果を認識していたのだ。また断末魔に突入しつつあった昭和十九年以降は、航空担当参謀として、軍令部第二部長の黒島亀人と相計り、戦局挽回のための航空特攻戦術採用の推進に主導的役割を果たす。 

 戦争末期の昭和二十年、軍令部参謀の権限により松山に三四三航空隊を再編成し、自ら司令に就任する。制空権を敵に奪われた敗色濃い本土防空戦のため、源田の顔で集めた新鋭戦闘機「紫電改」と生き残った数少ない歴戦の古強者をもって戦った三四三空は、戦争末期の日本海軍最精鋭にして最強の戦闘機隊といわれた。源田は「百七十機の敵機を撃墜、我が方の搭乗員七四名戦死」と自著「海軍航空隊始末記戦闘編」(昭和三十七年、文芸春秋刊)で赫々たる成果を自慢しているが、それも疑わしい数字であった。生出寿著「航空作戦参謀源田実」(徳間書店)に《昭和二十年に第三航空艦隊参謀であった角田求士中佐(兵学校五十五期)はあるとき松山基地に行き戦果を確かめるために、搭乗員たちに質問した。しかし明らかな証拠を説明するものは少なく、「撃墜数は信用できない」と思ったという》とある通り、当時は確かめる方法がなかったし、公の発表と実数との乖離は戦場の常ではあるが、真相は戦後五十八年を経過して判明した。平成五年、日系三世のヘンリー境田著『源田の剣第三四三海軍航空隊・米軍が見た「紫電改」戦闘機隊』という六百頁になる大著が出版され、米軍記録が明らかにされたのだ。日本側搭乗員戦死八八名,殉職二一名。対三四三空の戦闘による米軍喪失はわずか三十八機であった。

 源田実は戦死を逃れ、また自決することもなく、昭和二十九年、創隊間もない自衛隊に旧軍大佐枠の一人として入隊し、航空幕僚長、空将まで出世する。その厚顔無恥ぶりは陸の瀬島龍三と双璧をなすが、特に航空特攻戦術採用の実質的創始者であるにもかかわらず、その件に関しては言を左右にしたり無関心を装ったりと、おぞましいことこの上ない。自衛隊退官後は参議院議員を四期務め、自民党国防部会で自衛隊次期戦闘機(ロッキード)決定に深く関与した。
 戦後日本の復興とは、瀬島や源田をはじめとする破廉恥な輩が深くかかわり、また多くの日本人がそれに無自覚なままに築いたものであった。

特攻生みの親にされた大西滝次郎
 今次大戦の特徴の一つは昭和十九年秋以降の戦局悪化に伴い、世界戦史上類例無比の十死零生の体当たりを、帝国陸海軍ともに常用戦術として採用したことである。その始まりは、昭和十九年十月の比島決戦、捷号作戦のレイテ攻防戦で、第一航空艦隊長官・大西滝次郎中将が、関行男大尉以下二十五名を「神風特別攻撃隊」として「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と命名し、大和隊に突撃を命じた十月二十一日とされている。そのことから大西中将が特攻の生みの親とされてきたが、これもまた事実の捏造によるものなのだ。

 この稿では、戦後社会の表舞台で跳んだり跳ねたりしても特攻のかかわりには一切口を拭っていた源田の醜悪な姿を、戦中戦後の事実をもって明らかにする。

 大西中将に特攻の責任を押し付けるのに一役買った著作が占領末期の昭和二十六年に出版された。中島正・猪口力平著「神風特別攻撃隊」(日本出版協同)である。占領下で特攻の記録物が珍しいこともあり、当時は力作と評価が高かった。筆者も小学六年生当時,何日もかけて熟読し、神風特攻の真相かくなりしかと感激した記憶がある。

 しかし、源田のお茶坊主と言われ、戦後は源田の部下として自衛隊に勤務した元中佐の中島が執筆したこの本は、軍令部部長・中沢佑(たすく)中将や源田を含む軍令部の責任を回避するために歴史的事実を改竄した、悪質なものであった。戦争末期といえども帝国海軍の戦史に関わることと登場人物の多さから言って、これら事実の改竄は、海軍軍令部及び海軍省の幹部たちによる共同謀議と疑わざるを得ない。

 中島はまず、《ここに、特別攻撃隊の指導者側として神風特攻隊の創始者大西中将の先任参謀であった猪口と、また特別攻撃の実施者側として最初の特別攻撃隊を編制した航空隊の飛行長であった中島が、資料の散逸喪失しないうちにと、とりあえずその代弁に務め、まず史実の編修を試みたものである》と、大西が特攻の創始者であることを強調する。

 捷号作戦において比島航空戦の指揮を取るために第一航空艦隊長官に任命された大西中将は、十月十七日空路マニラに着任。翌日傘下の二〇一航空隊本部に幹部を招集した。

《長官は皆の顔をずっと一わたり睨むように見わたしていたが、おもむろに口を切った。「一航艦としては、是非とも栗田部隊のレイテ突入を成功させねばならぬが、そのためには敵機動部隊を叩いて、空母の甲板を使えないようにする必要があると思う。(中略)それには、零戦に二五〇キロの爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが…、どんなものだろう。」玉井副長(著者注 戦後仏教に帰依、出家して特攻の供養に努めた)の胸には、その瞬間ピーンと響くものがあった。「これだ!」そう思ったそうである。(中略)居並ぶ我々は、玉井中佐を凝視しながら、むしろこの攻撃を自身実行するものとして、或る感動に浸っていたのである。》

 ピーンと響いたという玉井、攻撃を自分自身実行すると感動に浸った中島も含めて、この会議に参画した幹部に特攻で戦死した者なし。

 《そこで私は玉井副長に「これは特別なことだから、隊に名前をつけて貰おうじゃないか!」と二人で考えた。その時ふと思いついて「神風隊というのはどうだろう?」と言った。すると玉井副長は言下に「それはいい、これで神風を起こさなければならんなあ!」と賛成した》
 体当たり攻撃という非常の戦術が比島決戦の切羽詰った状況の中、現地のやむを得ない選択として大西中将が発案したとして、その作戦を彼らが現地で「神風」と命名したと言うのだ。ここでも虚偽がでっち上げられた。事実は生出寿著「花形参謀源田実」(平成二年徳間書店刊)及び公刊戦史叢書「大東亜戦争海軍捷号作戦(二)」に詳しい。

 源田は昭和十九年十月十三日、台湾沖航空戦の二日前に、次の電報を起案した。「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊など)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」。この電報は敷島隊が戦果を挙げた翌日の十月二十六日、軍令部第一部長・中沢少将から、比島の第一航空艦隊長官・大西中将宛に発信された。

 大西中将は十月九日に東京を発ったが、台湾沖航空戦の為台湾で足止めされ、比島に着いたのは十七日である。この電報は大西の移動中に起案され、敷島隊成功を確認の上で発信されたものだ。つまり航空特攻は、大西が比島に出発する以前に、海軍の最高方針として、「神風」という名前とともに決定していたのである。

 海軍の特攻兵器の中でも、人間魚雷「回天」とロケット滑空人間爆弾「桜花」は、破壊力及びその非情性において、双璧であった。桜花は、兵隊上がりの古参偵察搭乗員である大田正一少尉(終戦時中尉)が考案したもので秘匿名「○」も考案者の大田の一字を取ったといわれている。一介の少尉が多忙を極める海軍航空技術廠にポンチ絵程度の図面を付けて持ち込んだ構想をもとに、わずか二ヶ月後の昭和十九年八月には軍令部から航空本部に試作命令が出され、続いて半月後には量産命令が出されるという素早い進捗からも、特攻兵器の開発採用に軍令部の積極的意志があり、特にロケット滑空機は、航空の第一人者を自認する軍令部航空主務参謀・源田実の強力な支持があったと考えられる。
試作命令から二ヶ月後の昭和十九年十月一日、桜花専門部隊である第七二一航空隊が、岡本基春大佐を司令として百里浜基地で編制された。比島で大西長官が神風特別攻撃隊を編制する二十日前であった。七二一航空隊のような新部隊の編成は天皇の裁可を必要とする天皇大権に属する軍令事項である以上、体当たり攻撃が軍令部総長以下、海軍中央の組織としての決定であったことを示している。つまり特攻の本当の生みの親は大西瀧次郎ではなく、黒島、源田をはじめとする軍令部であり、特攻出撃することのない、海軍省に住み着く城狐社鼠どもであったのだ。

 桜花の考案者である大田正一の消息について奇怪な話がある。大田は終戦三日後の八月十八日、茨城県神ノ池基地より突如、整備済みだった連絡用の零式艦上戦闘機に飛び乗り鹿島灘沖合に飛び立って行方不明となり、訓練中の公務死として処理され、戸籍からも抹消された。遺書もあったことなので、桜花開発の責任を感じての突入自爆だと誰もが信じた。しかし大田は死に切れず、漁船の近くに不時着水して救助され、仮名で無国籍のまま結婚して子どもをもうけたことが明らかになったのだ。

《大田は松島あたりに不時着水して部隊解放後の神ノ池基地に現れたこと、戸籍がないまま偽名の生活を始めたこと、かつての戦友から寸借を重ねたこと、生きていながらの遺族手当受給は違法だと指摘されて姿を消したこと(中略)太田の足取りを追って久しい歴史学者の秦郁彦氏に教示を仰いだ。(中略)前年(平成六年)の十二月八日、開戦と同じ日にがんで死去したと言う。何時ごろか無籍のまま家庭を持ったが、最後の最後まで、桜花の発明を悔やんでいたと言う。発明が採用になった裏の経緯については一切明かさずに死去したらしい。》(内藤初穂著『桜花』中央文庫)
享年八十二歳。天寿をこれまた全うせり。
 桜花の唯一の実戦部隊七二一空の司令・岡本大佐は終戦から三年経過した昭和二十三年七月十三日、盆の初日に鉄道自殺で命を絶つ。死の理由は遺書がないので不明だが、戦犯容疑をかけられていたと言う話もある。同様に、なぜここまでして大田が身を隠そうとしたのかについて、生出寿氏は『一筆啓上 瀬島中佐殿』(徳間文庫)で、太田正一と源田実の関係を指摘して厳しく批判している。

《なぜ身を隠したのか、「戦争犯罪には時効がない」ことを源田実大佐から聞かされ脅されていたとしか考えられない。源田は特攻決定のキーマンであったにもかかわらず、居留守、約束不履行などあらゆる術策を弄して誰の取材からも逃げおおせた。大西瀧次郎中将が終戦時に切腹し果てたのを奇貨として特攻創始者の責任を兄貴分の大西に負わせ、沈黙によって自分を安全圏に置いた。だが大田がしゃべったら全貌が明らかになる。》

 日本を占領した連合国軍総司令部は、全土隅々まで本格的に戦犯摘発に乗り出したが、各級戦犯裁判の訴追に「人道に対する罪」という罪状が使われた。回天桜花は非人道的兵器と言う認識で、それを推進・採用した軍令部幕僚は戦犯訴追を恐れたのである。その当時の事情を、自らも陸軍少年飛行兵として特攻基地に配属された作家の神坂次郎が、『特攻隊員たちの鎮魂歌」(PHP研究所)で説明している。

《敗戦以来、元飛行兵のひとりとしてひたすら蒐め続けてきた資料だが、特攻の人々の遺書、写真と言うものは、きわめて少ない。原因は、敗戦直後、特攻基地周辺に流れたデマである。
「アメリカを苦しめた特攻隊員とかかわりがあったものは皆処断される」

 そんな風説が渦巻き、その一種の恐慌状態のなかで隊員たちが託し、残していった遺書の多くが焼却されてしまったのである。今残されている遺品は、その混乱と黒津波のように上陸した進駐軍やGHQの恐怖の中で遺族や隊員を愛惜する人々が密かに匿し、肌で暖めるように抱き続けてきた貴重な記録である》 
 大西中将が「統率の外道」と嘆いた特攻戦術を、陸海軍の常用戦術として敗戦のその日まで戦法に採用せざるを得なくなったのは、破断界に瀕した戦局にあった。しかし緒戦の半年は破竹の勢いであった帝国海軍が、ミッドウエーに始まる作戦の失敗の連続から断末魔に追い詰められたのは、果たして軍事力の強大な差だけであったのか。
否、帷幄の臣、国家の藩屏たるべき統帥部軍事官僚の犯罪的懈怠という人禍が、日米軍事力の差以上の敗北を招いたのである。
 自らの責任で作り出した戦局悪化打開のために、特攻に出る事のない軍令部の参謀が考えついた戦術が、特攻であった。この許しがたい悖徳性を自覚しているが故に、源田実らはその発案の責任を大西中将に押し付け、あるいは「至誠尽忠の青年将校の発起」などと国民の目を晦まして来たのだ。
 かくして昭和十九年十月の捷号作戦から昭和二十年八月十五日の終戦まで特攻作戦は続けられ、歴名の日まで耐えたる春秋に富む特攻隊員=前途有為なる、至誠純忠なる青少年四千名、空に海に千早ぶる鬼神と化して散華せり。
 軍令部第一部長だった中沢佑元中将は、戦後三十二年目の昭和五十二年七月、水交会で講演した。そのとき妹尾作太男氏(海兵七十四期、防衛庁幹部学校研究部員)が、海軍中央が海軍戦術として体当たり攻撃を公式に採用していった経緯を質問したが、口を濁すばかりで答えようとしなかった。その妹尾氏が訳したデニス・ウォーナー著「ドキュメント神風」(昭和五十七年、時事通信社刊)の「訳者あとがき」より引用

《いかに大西提督が海軍航空隊の元締的人物であったにせよ、あれだけの大組織の海軍に於いて、彼一人の考えから、前例のない航空特攻作戦の採用に踏み切れるものでない。必ずや海軍中央部からの指示なり、慫慂があったに相違ないことは、その経緯を少し仔細にたどってみれば、容易に察せられるところである。
 大西提督は前線の部隊指揮官として、彼自身が「これは統率の外道だ」と嘆いたものを実施せざるを得ない立場に立たされ、血涙の思いで愛する部下を〈十死零生〉の特攻に送り出した。戦い敗れるや、彼は一言の弁明もせず、責任を取って割腹、介錯を断り、まる半日苦悶のすえ、息を引き取り散華した部下の後を追った》
 大西中将は「特攻隊の英霊に日す。善く戦ひたり。深謝巣」で書き出す遺書を残して自決した。特攻の実施について「わが声価は、棺を覆って定まらず、百年の後、知己またなからん」と海軍の批判を一身に引き受けて死んだ。
 生き残った源田実について生出氏は、前掲書でさらに手厳しい批判をしている。
 《(特攻慰霊祭に参加したのは)源田実が数回、それも参議院議員のときだけ〈昭和六十一年六月退陣〉。その後は一度も参加していない。選挙目当てと判る行動と言わざるを得ない。(中略)源田の腰巾着だった中島正はフィリピン出特攻運用のオーソリティになり、(中略)神雷部隊でも昭和二十年四月初めから主任として(中略)作戦指導をしたが、慰霊祭に一度も参加したことがないだけでなく、金銭も出さなかった》
 支那事変から海軍の戦闘機搭乗員として今時大戦の全期間を第一戦で戦い、特攻隊員にも命じられたが、奇跡的に生き残った角田和男元中尉は、上官だった中島についてこう記している。
《ちょうどそこへ、始めて見る大尉が難しい顔をして前にたった。「飛行長、いくら何でも桟橋にぶつかるのは残念です。空船でもよいですから、せめて輸送船に目標を変更してください」と頼んでいる。傍らで聞いていると、この人の隊は、今日薄昏タクロバン{筆者注、レイテ島の米軍物資揚陸地}の桟橋に体当たりを命ぜられたらしかった。間髪を入れず中島飛行長の怒声が飛んだ「文句を言うんじゃない。特攻の目的は成果にあるんじゃない。死ぬことにあるんだ」睨みつけられた大尉はしおしおと帰っていった。》(「修羅の翼」平成元年、今日の話題者刊)
大西長官から特攻の話を始めて聞かされたとき「自分自身出撃する感動に浸」り、「特攻の目的は死ぬことに有り」と部下に怒声を発して追い返した中島は、源田の悪行の隠蔽の論功か、戦後自衛隊に入隊して第一航空団司令(浜松)空将補(旧軍の少将相当)まで昇りつめ、悠々自適の老後を送る。
 軍令部第一部長の組織上の責任者であった中沢佑少将は、海軍省廃止の昭和二十年十一月一日、部下の反対を押し切り、海軍中将に進級退官する。先人に悲鳴に倒れるもの三百余万人、国家を破滅に陥れた大本営の将官が、お手盛りで進級したのだ。この人倫に悖る人間が国家の藩屏として君臨していたのが、残念ながら偽らざる日本の姿であった。
 海軍兵学校出で、源田実の自衛隊時代の部下である妹尾作太男氏は、生出寿著「源田実」の解説で源田を厳しく批判した。
 《源田が航空幕僚長として時期主力戦闘機を、グラマン、ロッキードの二種のうちから選定しなければならなくなった時、彼は「もしそれロッキードを採用するならば、航空自衛隊は平時にして壊滅するであろう(したがってグラマンを採用すべきである)」と、国防会議において堂々所信を表明していた。
 にもかかわらず、しばらくすると、平然としてロッキードを採用した、源田の変節と無責任ぶりには、筆者も当時、防衛庁に勤務していたので、ただただ唖然とするばかりであった》
 源田はあの田中角栄のロッキード事件に深くかかわっていたのである。さらに生出寿著「淵田美津雄中佐の生涯」(徳間書店)より引用する。
《昭和四十三年七月七日に第八回参議院議員選挙があった。元海軍大佐、空将、航空幕僚長の源田実は、昭和三十七年(一九六二)七月一日の参議院全国区に、自民党公認で立候補して初当選し、再び立候補していた。昭和三十四年、空幕長の源田実は、時期戦闘機を選定する第三次調査団の団長として渡米し、既に内定していたグラマンF一一Fを捨て、ロッキードF一〇四Cを次期戦闘機とすべきであると結論を出した。
 国防会議はそれを理由にして、ロッキードF一〇四Cを次期戦闘機に決定した。減だがグラマンをやめロッキードにしたことについて、旧海軍航空隊の後輩角田求士中佐(源田の三期下の兵学校五十五期)は源田に質問した。「グラマンをやめてロッキードにした理由はどういうことですか」「理由など別にないよ」源田はそっけなく答えた。
 より多い政治献金を必要とする自民党の実力者たちの指示に従ったということらしかった。それによって自民党の公認と資金援助を受け、昭和三十七年の参議院選に立候補した様である。
 源田が四回めに七五歳十ヵ月で立候補した昭和五十五年(一九八〇)六月二十二日、参議院選のとき、高年齢と人気低下などのため、第一次公認をはずされた。よほど腹に据えかねたのであろう、事務所の中で、「公認しないなら、グラマン・ロッキードのウラをバラしてやるぞ」といきまいた。
 応援に来ていた兵学校七十八期の大岡次郎は「やはりグラマン・ロッキード事件には裏取引があったのか」と思った》
 そして源田は自民党の第二次公認を受け参議院四期目の当選を果たす。
 まさに万卒の白骨の上に君臨し、その遺族のなみだを尻目にして、一身の栄達を計り、今生において虚偽と悖徳の限りを尽くした源田実は、平成元年、八月十五日の終戦記念日に八十五歳で死す。実に終戦から四十四年であった。
 かくなるうえは地獄の獄卒、牛頭馬頭に成敗を託さん。

 
出口吉孝氏 一九四〇年樺太庁豊原生まれ。法政大学卒。草莽志塾塾頭、第一一戦車大隊士魂協力会会長。札幌発言者塾幹事、著書に「北海道よ」(北海道新聞社刊)など。
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