『週刊新潮』平成23年8月26日号より
「週刊新潮」8月26号
昭和20年8月15日、人々が戦争の惨禍から解放された終戦の日。
だが、その2日後に始まった「戦争」があることを知る人は少ない。
この不可解な戦いを小説、ノンフィクションで描き出した2人の作家が、「占守(シュムシュ)島攻防戦」とは何だったのかを語り合った。

「終戦」から2日が経過した昭和20年8月17日深夜。
最北の日本領、千島列島・占守(シュムシュ)島に、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が突如、攻め入った。
3日間に及ぶ戦闘で日本軍600名以上の戦死者、ソ連軍3000名以上の死傷者を出したこの島は、「もうひとつの硫黄島」とも呼ばれる。

それから65年を経た今夏、この戦いを見つめた2つの著作が出版された。
ひとつは、図らずもこの悲劇に巻き込まれていく軍人や家族らの群像劇を描いた浅田次郎氏(58)の小説『終わらざる夏』(集英社)。

もうひとつが、生存者の証言と膨大な記録から激闘を再現した大野芳(かおる)氏(69)のノンフィクション『8月17日、ソ連軍上陸す最果ての要衝・占守島攻防記』(新劇文庫)。

その著者2人が、「終戦後に始まった戦争」占守島攻防戦について語り合った。

浅田 僕がこの戦いについて初めて知ったのは、40年前のことです。
当時、僕は陸上自衛官でしたが、戦史の講義で教官が本当に声涙倶(とも)に下るといった熱弁で教えてくれたんですよ。
同じ国を守る人間として、共感するところが強かったんでしょう。それが頭にこびりついて、いつか書いてみようと思っていました。
書店で見つけた資料を賀いためたりはしていたんですが、なかなか書き出せなかった。
そのうちに時が流れ、やはり戦争経験者がご存命のうちに書かないと意味がないと思ったんですね。それが、時代を引き継いでいく人間の役目だと思うので。

大野 僕もこの話は全く知りませんでしたが、ある雑誌編集者から提案があって、昭和54年に一度取材を始めたんです。

浅田 ああ、ずいぶん早かったんですね。

大野 はい。それが途中で頓挫しちやったんですよ。でも、浅田さんと同じく資料を買い集めて読んでいたら、取材で実際に聞いた話と違っていたりして、ずっと気になっていた。
たまたま3年前、新潮社の編集者にそんな話をしたら興味を持ってくれて、全国の関係者を北海道からもう一度訪ね歩いたんです。

北千島慰霊の会の人たちが集めた証言も丹念に読みました。それによって、この戦いの実像がかなり分かりました。

浅田 ソ連側の戦史を見ると、大きな軍艦や輸送船で来たわけではなくて、いろんな種類の小型舟艇で来たんですよね。

大野 そうですね。1500~1600トンクラスの哨戒艦2隻と機雷敷設艦など、おそらくまともな軍艦は3、4隻程度です。あとは種々雑多な船を集めて54隻。

浅田 漁船や機帆船(内燃機関を積んだ帆船)まであったという。その辺が、僕は奇妙な話だなと思ってね。攻撃部隊として、そんなことがありうるだろうか?

大野 兵隊もかなり無理してカムチャッカで集めてるんです。14、15歳から50歳まで徴兵して、なんとか頭数を揃えた。

浅田 ということは、上陸部隊8000人というのは、作戦計画通りというより、それしか集められなかったということですか。

大野 そうなんです。南隣する幌筵(パラムシル)島とあわせて2万3000人を擁する日本軍に対して明らかに劣勢です。それでも作戦を決行したところにソ連側の焦りのようなものを感じます。

浅田 日本側に一個連隊という強力な戦車部隊がいることもソ連は事前に知っていたはずです。これは僕の自衛隊での経験なんですが、戦車の戦闘力というのは実に強大で、演習で敵の戦車が一両現れたら、歩兵一個小隊(30~40人)ぐらいは全滅とみなされるんです。

大野 一個小隊、ですか。

浅田 もちろん歩兵部隊は対戦車砲を待っていますが、戦車の側面の弱いところを正確に狙い撃つか、よほど至近距離での待ち伏せ攻撃をするかしないと撃破できない。それが陸戦の常識とされていたんです。
戦車に対抗しうるのは戦車のみ。戦車一個連隊がいるところに対戦車砲部隊だけが来るというのは、これは無理がある。
だから、僕は占守島上陸部隊に求められたのは、戦果というより戦死者の数だった、彼らは戦後の千島列島領有を見据えたスターリンの「人柱」だったという説をとったんです。

大野 実際、スラヴィンスキーという戦後ロシアの歴史家によれば、まだ日露戦争で失った樺太と、千島を手に入れてない、8月15日の時点で戦争を終わらせるわけにはいかない、というのがスターリンの意図だったというんです。
指揮官たちの「覚悟」
水際でソ連の上陸部隊に甚大な被害を与えた歩兵部隊、カムチャッカのロパトカ砲台を沈黙させた砲兵部隊……そんな日本軍の奮闘が「戦闘開始後、1日で占守島を占領」という作戦計画を打ち砕き、ソ連軍の侵攻をわずか3キロ以内に食い止めた。
なかでも特筆されるのが「戦車第十一連隊」の激闘だった。大野氏が聞き取った関係者の証言は、大きな犠牲を払いながらも内陸部への浸透に成功したソ連軍に、連隊長・池田末男大佐を先頭とした戦車隊が決死の覚悟で切り込んでいく様子を浮き彫りにしている。

大野 歩兵部隊もすでに反撃を始めていますが、さっき浅田さんが仰ったように、戦車隊の出撃が趨勢を決めたんです。
池田連隊長は出撃前に、白虎隊となって玉砕するか、それとも恥を忍んで赤穂浪士になるか、と部下たちに覚悟を問い、全員が白虎隊たらんと応じた。

「島を守るには、国を守るには、今、自分たちが死を賭すしかない」という苦渋の決断だったと思いますね。

戦車連隊は96人が戦死しているんですが、兵隊の戦死者は6人だけ。指揮官以下、士官クラスが真っ先に前線に出ているんです。

浅田 僕の自衛隊経験でも、甲隊長、連隊長の人格次第で、確実に兵隊の士気は変わりますね。

大野 浅田さんは階級はどこまで行ったんですか。

浅田 陸士長という、昔だと陸軍兵長か上等兵というところですね。
そのあたりが、「ダメだ、あのチュースケ(中隊長)は」なんて言うと、下の連中もそう思っちゃう(笑)。
だから、演習で「突撃、前へ」と命じられても、何かスピードが出ないんですね。そのぐらい指揮官の人格というのは大きいんですよ。

大野 ただでさえ終戦を知って、一度、気が技けた後ですからね。そこで、あそこまで一丸となって闘えるというのは、池田連隊長に人並み外れた統率力があったということでしょう。

浅田 あそこで戦闘行動を起こすってことは、すごい決断だと思うんです。
戦争は終わったと知っている上に、天皇陛下の玉音放送、つまり戦闘中止の勅命にも抗うことになる。
僕ら戦後の世代は、昔の軍人というと画一的に「天皇陛下万歳」を連想してしまうけど、実態はそうではなくて、国民、国土を守るというきちんとした認識があったのだと思う。

ここ占守島は日本の領土だ、しかも島の缶詰工場には大勢の民間人もいる、これを守らなければ。それゆえの抗戦だと思う。その決断をした指揮官たちは、本当に偉いと思います。

千島は正当な「日本領」
大野 歴史に「if」はないわけですが、僕はもし占守島にあれだけの精鋭部隊がいなかったならば、ズルズルともっと南まで、場合によっては北海道まで占領されていたように思うんです。

中千島や南千島にも兵隊はいましたが物の数ではないし、艦砲射撃でもやられれば反撃の力はない。
占守島で時間を稼いでいなかったら、ソ連軍が宗谷岬の辺りに上陸して占領した可能性はあると思います。

浅田 そういう可能性はありますよね。ソ道には、北海道を占領するという目論見があったことは事実のようですから。
ところで、一つ肝心なところをお尋ねしたいのですが、「北方四島返還」の「四島」という限定は、一体いつから始まった話なんでしょうかね。
僕らは「四島返還、四島返還」というふうに物心ついた時から聞いてるんだけれども、四島というのは一体何だろうと思って調べてみると、安政元年(1855)の日魯通好条約で得撫島(ウルップ)と択捉島の間に国境が定められ、択捉・国後・歯舞・色丹の四島は日本領と確認されたんですよね。

大野 ええ。さらに明治8年に榎本武揚がまとめた樺太千島交換条約では、樺太を放棄する代わりに、得撫島以北、占守島までの全千島を日本が譲り受けました。
この条約では、四島の話は一切出てきません。四島は最初から日本領という前提です。それが、両国間で再確認されたと言っていい。

浅田 そもそも、この交換条約は国際法上、完全に有効だと思うんですよ。日露戦争に勝って領有権を得た南樺太とは違うんだから。

大野 そうなんです。

浅田 スターリンがそれを寄越せというのは、歴史を誤解してますよね。四島と言っちゃったから、今さら全部返せとは言えないけど(笑)、これはロシア側にきちんと理解してもらう必要があると思う。
千島列島は友好的に結ばれた粂約で日本領になったということを。
一番悔しがってるのは榎本武揚だと思いますよ。

大野 ソ連の理屈では、戦艦ミズーりで降伏文書に署名した9月2日以前に占領したところは、戦闘で奪ったソ連の領土だということになるわけです。
もっとも、実際には歯舞・色丹の占領は9月2日前後にずれこんでいる。これが、二島返還論の根拠になっているんです。返すとすればアレかな、ということなんでしょう。

ところで、『終わらざる夏』を読んで感じたのは、これは浅田版『戦争と平和』なんだ、ということでした。

浅田 日本人が善であってソ連が悪であるというような一面的な考え方は、僕ら戦後世代が書くべきではないと思ったんですね。
敵から見ればこちらが敵なわけだし、それぞれの国益のために戦うわけだから、どちらの国にも言い分、大義はあるわけです。
だから、ソ巡側の視線というのも必要なんじやないかと考えたんですね。
もちろん、ソ連は資料が極端に少なく、一番面倒な部分なのですが。

大野 あっても、官製だから脚色されている。

浅田 僕は、ソ連兵にも日本との戦争を始めることへの懐疑は必ずあったと考えたんです。
ドイツとの戦いは、スターリングラード攻防戦以来の大祖国戦争という大義がある。
だが、日本と戦争するというのはどういうことなのか。その迷いの中で、貧弱な装備のまま、彼らは大軍の待つ占守島に上陸させられたわけです。
この戦いは8000人のソ連兵からしても、ものすごく理不尽だったと思う。それをどうしても描きたくて、小説ではサーシャという中尉に、その理不尽を語らせました

「60年後」に語れること
トルストイが『戦争と平和』を書いたのも、ナポレオンどの戦争から60年近く経ってがらです。
占守島の話も、たとえば昭和30年代には書けなかったことでしょう。まさに、終戦から60年余が経った今が、出版にはちょうど良いタイミングだったのかなと。

浅田 僕も60年の干支のサイクルには合理性があるかなと思っているんです。
たとえば、昭和3年に幕末ブームが起こり、子母渾寛の『新選組始末記』などが生まれていますが、昭和3年は干支でいうと「戊辰」の年なんですよ。

大野 ほう、戊辰戦争の。

浅田 暦が一回りすると、当時を知る人も残ってはいるが、新しい世代がほとんどになって、もう一度、物事を客観的に顧みることができる。
僕がこの小説を書き始めたのも、戦後61年ぐらいのタイミングでした。
それから、1974年に製作された『樺太1945年夏 氷雪の門』という映画が、現在再公開されています。

ソ連軍の侵攻に最後まで敢然と立ち向かった樺太の、電信局の女性交換手を二木てるみ、藤田弓子らが演じた映画なのですが、何がしかの圧力でほとんど上映されないままお蔵入りになっていた。
それが今年やっと日の目を見たんです。

戦後、日本はソ巡、ロシアに対して“外交上の配慮”をし過ぎてきたんじゃないかと思うんです。
だから、樺太の戦闘や占守島の戦闘も、封殺とは言いませんが、ある程度は国が見て見ぬふりをしたように思えます。

大野 今回、それを浅田さんが小説にしてくださった。
僕のノンフィクションも文庫になった。これで占守島攻防戦、北方領土問題への関心、認識が少しでも深まることを期待したいですね。

ロシア側は、たとえば占守島で接収した戦車をカムチャッカの博物館に展示したり、千島列島は我々が戦って勝ち取った正当な領土なんだ、と常にアピールしています。さる7月末には、ロシアが改めて9月2日を「対日戦勝記念日」に制定するという動きがありました。

ロシア国民にそういう意識を刷り込まれることが怖いですよね。共産党の機関紙「イズベスチヤ」に意見広告でも出せないでしょうか。
いや、「ニューヨーク・タイムズ」でもいい。

浅田 そうですね。終戦直前に始まり、止めようとしても止まらなかった満州の戦争と、終わってから始まった占守島の戦闘というのは、全然意味が違う。それを世界に発信することは確かに必要です。


資料:08年2月23日放送分「旧占守島の太平洋戦争遺跡II」
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