マスコミが“マスゴミ”とネット上で揶揄されて久しい。蔑称される側も気分が良くないであろう。
「科学をいまどう語るか」の読売の書評に『・・・インターネット上に即座に流れる玉石混淆で皮相的な情報とは一線を画し、じっくりと読むに値するだけの明晰さと深さを兼ね備えた記事こそが新聞には期待されている。科学記事はまさにその代表であろう。・・・』とあった。ここは蔑称される側も揶揄する側も産経Web記事をじっくり読み、それぞれ取材能力の向上努力と媒体の選択肢を向上させる事です。

社内の“縛り”ばかり気にしているようでは… 
日本文化大学学長・大森義夫(2014.3.16産経Web)
 7日に釈明と抗弁の記者会見を行った「偽りの作曲家」佐村河内守氏。朝日は関連記事について2月6日の第2社会面で「おわび」を、同11日の文化面で吉田純子記者の「自戒」を掲載した(どちらも目立たない場所だから見逃した読者も多いかも)。1面で社長か編集局長が謝罪して検証記事を出すべきだと思うが、「それなら過去に行った中国の文化大革命の評価も同じく謝罪すべき」(徳岡孝夫氏。週刊新潮)との指摘もあり“伝統”の長さにタメ息がでる。
 吉田記者は(1)相手側にも問題があった(2)NHKはもっと積極的にコミットした、と言っているが、これって保守の一部が戦争突入の正当化に使うロジックであって、それを一貫して攻撃してやまないのが朝日ではないのか。吉田記者は芸大の西洋音楽史専攻だった(週刊新潮)というが、「なにかおかしい」と思いながら周囲の空気に押されてずるずると行ってしまうのは、これまた朝日の論調を借りれば「あの戦争から何も学ばなかったのか」となる。
 スクープした週刊文春は「私たち取材班は特段、難しいことをしたわけではない。佐村河内の周辺を丁寧に取材しただけで、短期間で彼の嘘が次々と明らかになった」と書いているのだから新聞の取材能力低下は明白だ。
 「誤報はどの新聞でもするよ」と言うかもしれないが朝日の場合は特定の言葉、例えば社会主義、立ち上がる市民、脱原発などがそろえば「いけいけ」で筆が走る“伝統”がある。今回も被爆二世、全ろう、被災地域との交流といったキーワードがジャーナリズムに必須の「正しく疑う」基本をないがしろにしたのだ。
 産経は同14日の紙面で今“話題”の「割烹(かっぽう)着のリケジョ」小保方晴子さんと佐村河内氏の2事案を取り上げて「業績に関係のない物語ばかりが報道されている」「わが国にはゴシップ新聞しかないらしい」といった批判を紹介している。確かに、サイドストーリーにすぎない人情話を垂れ流すのは夏の甲子園、正月の箱根駅伝などで繰り返され、ソチ五輪でも各紙競って盛大に展開した。
 国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」(本部・パリ)による新聞の自由度調査で日本は59位。2010年の11位から毎年つるべ落としに評価を下げているが、失敗や勇み足を恐れるあまり社内の“縛り”ばかり強化しているのも一因ではないか。冒険を嫌う今の日本の縮図になっている。記者が自己責任において書く機会をふやすべきだ。自由と多様性のない職場に人材は集まるまい。

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