ドミニック・ヴェネールの自決と三島由紀夫
竹本忠雄氏から緊急寄稿
 去る5月21日、午後4時頃、パリのノートルダム大聖堂の中で、著名なフランス人作家、ドミニック・ヴェネール氏が、「同胞を惰眠から目覚ませんとして」ピストル自殺を遂げた。日本の新聞では単に「極右の作家が自殺した」の1行で片付けられたにすぎないが、その背景は文明論的に深い。誰よりも彼は「日本の三島」を尊敬していた。
そのことは彼の主宰するポピュラーな『新歴史評論』(NRH)誌をつうじて表明されたことがあったし、またそれは、たしか、この「早読み」ブログにも紹介されたように思われるので、われわれとはまったく無縁というわけではない。よって、以下、事件を略記して伝えたい。

 事は、1500人の参詣者の詰めかけた大聖堂内の祭壇前で起こった。78歳の老作家はベルギー製のピストルで口腔内を打ち抜いて果てた。祭壇前のテーブルに1通の遺書が見つかった。騒然とする群衆を退去させ、憂国まで大聖堂を閉鎖するなか、大司祭が駆けつけて遺書を開くと、こうあった。
 「私は心身ともに健全、かつ妻子を愛する者だが、我が祖国ならびにヨーロッパの危機甚大なるを見て、一身を捧げて同胞を惰眠より覚醒せしめんと欲する。悠遠の昔より民族の至聖の場であったパリのノートルダム大聖堂を死に場所として選ぶ…」
 このような書き出しで、次に自決の理由が述べられているが、やや抽象的で一般には分かりつらい。最後に、詳しくは最近の拙著、並びに遺著を参照せられたいとして、この遺著の名を挙げている。『西洋のサムライ――反逆者血書』(Un Samourai d'Occident. Le breviaire des insoumis)とでも訳せようか。

 自決の前々夜、5月21日にヴェネール氏が自分のブログに発表した声明も公表された。
そこには死の理由について、「我らの抗議は、単に同性婚への反対に留まらず。フランスならびにヨーロッパの民族大置換という真の文明的危機に抗するものなり」と記されている。
「民族大置換」とは、「フランス国民を外国人によって大がかりに入れ替えること」を意味する。第三国人の大量移入、子沢山による生活保護増大、財政逼迫は、キリスト教信仰と文化的独自性の喪失とも結びつき、多年、フランス国民の危機感と憤懣をつのらせてきた。この5月18日に布告されたばかりの「同性結婚法」だけでも、いま、国論を両断し、沸騰させている。「第1回ゲイ・プライド」集会が5月25日以後、トゥール市、ディジョン市と広がりつつある一方、これに抗して26日には数十万規模の反対デモがパリを中心に展開されている最中なのである。

 日本の大新聞は、こうした事変の更に奧にある西洋文明の恥部について、まったく把握の努力がなされていない。ここでは、2001年5月に、「タウビア法」が施行され、アフリカ黒人に対する奴隷制を「対人類犯罪」として断罪したこと、それに悪乗りする形で「同性婚」も法制化されるに至ったことを記すに留める。
さらに云えば、ここに云う「対人類犯罪」は、東京裁判で日本を断罪したのと同じコンセプトであり、フランスではこれを事実無根の「南京大虐殺」にも当てはめようとした経緯のあることを喚起する必要があろう。現下のフランス社会の動乱は、「反日」の世界的現象とも見えないところで繋がっているのである。

 もう一つ、特に、内的な要因をも見過ごしならない。ドミニック・ヴェネールの遺書には、前記の6月刊行予定、『西洋のサムライ――反逆者血書』の出版社主としてP‐G・ルーの名が記されている。このルー氏が、著者自決後にAFP通信よりこう声明を発しているのだ。
 「ドミニック・ヴェネールは、武器研究の一人者であり、全11巻の『世界武器百科事典』の著者である。騎士道に強い憧憬を持ち、自決した作家、ドリユー・ラ・ロシェル、モンテルラン、三島由紀夫を尊敬していた。中でも、ノートルダム大聖堂を死に場所に選んだことは、その行為の意味を、1970年に自刃した日本の作家、三島に最も象徴的に近づけるものである」。
 武士の魂の宿る場として三島が選んだ自衛隊司令部と、祈りの中心、パリのノートルダム寺とでは、一見、まったく性質の相異なるものである。が、騎士の勇気と祈りがむすびついて騎士道が生まれた史実を考えるなら、自決者ヴェネールの心底が分からないでもない。
もちろん、「聖堂を穢した」との信徒の声も挙がってはいるが。大司教も、「彼は信徒ではない」と釘をさした。が、その日の夕祷において、「この死者の救霊のためにも祈りましょう」と述べているのが印象ふかかった。

 ドミニック・ヴェネールは、自らを「反逆者」として定義してきた男である。短い遺書にもこの語が4回も使われている。未成年の頃にアルジェリア戦争で、ドゴールの政府軍に敵対するOAS(秘密軍事組織)に加わって戦った。1962年、投獄中に著した『実践批評論』をもって、アルジェリア戦争後意気消沈した極右の指導原理を打ち立て、さらに「文化闘争」の旗幟を鮮明にして「新右翼」の創始者と仰がれた。
1970年、「三島事件」に接して発憤、運動を大躍進せしめて、2年後、フロン・ナシオナル(国民戦線)党の創設にあたってその党首候補に推された。実際に党首となったのはル・ペン氏だったが。現在はその娘、マリーヌ・ル・ペンが後を継いでいる。ちなみに、マリーヌは、ヴェネールの訃報に接して、「彼の自決はフランス国民を覚醒せしめようとした高度に政治的なもの」とのオマージュを呈している。
 
われわれ日本人にとっては、このような人物が如何にして日本の「ミシマ」に心酔するに至ったか、その内的プロセスは大いに興味ふかいところである。今度の事件にさいしてフランス中を出回っているブログの中には、ヴェネールが座右銘とした
 《死は、放射能となって、未来に対して働きつづける》
 という三島の言葉をエピグラフとして掲げたものが多い。
 実は、これは、彼が主幹である『新歴史評論』2007年7-8月号に載った彼と私の対話の中で私が伝えたものだった。彼は若い女性秘書をつれてパリ14区の拙宅にやってきた。そのとき、私は、ヴェネールに尋ねたものだった。
 「あなたがたフランス人は、なぜ、そんなにも三島に夢中になるのですか」と。
 「さあ、それは…」と彼は端正な顔を緊張させた。そして一言だけ、こう応じた。「それは、大問題だ…」
 私には、どうも、ドミニックの死が、行為をもってそのときの問いに答えようとしたもののように思えてならないのである。竹本忠雄
【「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成25年5月28日(火曜日)】
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