from:わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2594号
3月30日、パラオ共和国の領海内で違法操業していた中共漁船が、パラオの海上保安庁のような機関に拿捕された。

事件は 4月4日中共でも報道されたようで、たまたま、4月16日からパラオに入国していた「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」の人々が翌4月17日、駐パラオ日本大使から聞いている。違法操業をした中共漁船はパラオ官憲の忠告を無視して逃走したので、パラオの同ナショナル レインジャ―が発砲し結果、中共漁船の船長は足を射たれ出欠多量で死亡。残りの乗組員は船ごとパラオ側に拿捕された。

これに対し、中共政府はマリアナ地域駐在の大使をパラオに派遣したが、パラオ側は大統領が相手にせず、国務大臣以下の役人を当てたとされます。

併せて、パラオ政府は北京から派遣された三ヶ所の主なる報道機関員も無視して取材に応じなかった。

しかし、日本からの地雷処理関係者との会合では大統領自ら出席したそうです。

結局、中共政府は当該違法漁船をパラオに取られ、またしかるべき罰金を払わされ、自らチャタ―した飛行機で自国の漁船員を連れ帰ったそうです

これは、「シャ―ク(鮫)とドラゴン(竜)の闘い!」で絶対譲れず、負けられない主権の問題!

パラオの〃海上保安庁〃役人は日本からの地雷処理関係者たちにそのように語ったそうです。

そこへ来ると我が国…経済大国のつもりのエセ政治屋と役人たちとヤクザ記者たちは、終始外国と外国人から「どう見られているか?」を気にしつつの劣等感体質のまま。

その癖、国連や世界から非難攻撃されても平気で野蛮な国々にも言いなりになり、且つ土下座することしか知らない。

詰まり、自らの国家観も主権も領土も国民を守る気概も気運もなく、世界中からもの笑いとなり、馬鹿にされ、信用も信頼もされない為政者ばかりが政党の別なく続いといる。(浜田 實)
2012.04.20 草莽志塾
19日草莽志塾で保坂正康講師の「昭和の教訓、国家指導層の人材枯渇は悲劇をもたらした」―その教訓をいかに生かすべきかーを受講しましたのでその感想

1、昭和元年から11年の2・26事件までのⅠ期と16年10月東條内閣誕生と終戦までのⅡ期の『人類史の体験』を戦後の左翼の幻想で我々は欠落したこと。
2、官僚主義の跋扈は政治家しか克服出来ないが故に下記の五種の害虫を駆除する政治家を選ぶこと。
組織に巣くう五種の害虫(韓非理論)
“人民は権勢に服しやすく、義になつく者は少ない”
1、守株待兎
2、仁義や雄弁で国は保てぬ
3、仁義の理論に矛盾あり
4、私的行為はびこり公利滅ぶ
5、公利と私利は矛盾対立する
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反日韓国人撃退マニュアル』桜井誠(晋遊舎)
クリックしろ~

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ソウル、売春婦像に竹島の碑!!
ソウル大使館前慰安婦像
札幌にも竹島の碑が生えてきた!

道教前
竹島は韓国の領土と教える北教組前
札幌韓国総領事館前
札幌韓国総領事館前
民団道本部
民団道本部前
from: 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成24年4月16日通巻第3624号
(読者の声1)「アメリカから見た神風特攻隊」について。
ネットで見つけた10分ほどの動画です。カミカゼと言えば無駄死、犬死という自称評論家も多いのですが、当のアメリカ軍はどう思っていたのか。

動画の4分8秒あたりから、「特攻パイロットの多くは頭脳明晰な大卒のエリート達だった」、「なによりも大切な家族を守るため、親兄弟を守るため、故郷を守るために彼らは命をなげうった」、「アメリカが攻め込んでくれば、日本の国家も文化も天皇も、なにもかもが破壊されてしまう」、「彼らがそれをくいとめるべく、空の軍神として出撃していったのです。」
動画の8分40秒あたりからのナレーション、アメリカ海軍の損害は撃沈30隻、損傷368隻という第二次大戦で最大のもの。太平洋軍司令官のニミッツは、沖縄戦開始後二ヶ月で、もうこれ以上持ちこたえられないと本国に打電し、兵士たちも、もう生きては帰れない、と絶望感をただよわせている。
動画の最後で損傷を受けた戦闘機を海に捨てる場面がでてきますが、ベトナム戦争の最終局面での空母からヘリコプターを海中に投棄するシーンと重なります。
戦争末期の日本軍の抗戦能力についてはいろいろ議論があると思いますが、大局的には日本の敗戦は必至だったのでしょう。しかしながらアメリカ軍に予想以上の損害を与え、心理的に大きなダメージを与えた特攻作戦、ベトナム戦争でのテト攻勢がアメリカ世論を反戦に変えたのに対し、テレビ放送が始まったばかりの1940年代にはアメリカ国民にその損害が伝えられることはなかった。
日本がポツダム宣言を受諾せずに本土決戦を選択していたら米軍の損害はアフガン・イラクどころではないはず。しかしながら皇室は存続し得たのか。国土もカルタゴのように完全に破壊し尽され、三発目の原爆が東京に落とされたかもしれない。
現在の日本は軍事的にアメリカの属国でありながら、アメリカは腫れ物に触るような態度で接することもしばしば。日本に敗戦の後遺症があると同様に、アメリカにも原爆投下の疾しさがあり、日本人が団結した時の怖さがわかっている。
日本がアジアでアメリカ抜きの共同体を構想しようものならアメリカは全力で潰しにかかってきます。ありえない仮定ではありますが、日中が同盟を結んだなら、アメリカはグァムどころかハワイまで防衛線を後退せざるを得ないでしょう。
国土防衛でもアメリカはF-22を機密上の理由で売らず今年で生産中止。F-35も開発の遅延が懸念されています。
先週、「日英で武器共同開発 首脳会談で合意へ」といったニュースがありました。

中国が次世代ステルス機の開発を進めるなか、英米とも防衛費削減で次世代機の開発に遅れが出ている。
日本も先端技術実証機の「心神」の開発を進行中ですが、国防の基本としてはアメリカの横槍をはねのけ自主開発するのが筋でしょうね。(PB生、千葉)

(宮崎正弘のコメント)いまの日本がまだ、ときおり尊敬されたりするのは、特攻の精神の遺産でしょう。
from わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2581号
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坂口安吾「特攻隊に捧ぐ」
━━━━━━━━━━━━平井 修一

咲く桜 風にまかせて 散りゆくも 己れの道ぞ 顧みはせじ(藤村勉二等飛行兵曹 享年19)

鹿児島県の知覧特攻平和会館には、日本の礎となって散華した特攻隊員の遺書や辞世の句が展示されており、涙を誘わないものはない。命を懸けて国に殉じたのである。彼らを含めた英霊に対して我々は最大の敬意と感謝を表すべきだろう。

坂口安吾の論考「特攻隊に捧ぐ」はある雑誌に1947(昭和22)年2月掲載予定だったが、GHQの検閲により「軍国主義的」であるとして削除された。以下に抄録する。

・・・・

数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。

それは一に軍部の指導方針が、その根本に於て、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう。

けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。

たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄することにほかならない。

もとより死にたくないのは人の本能で、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。

我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。

私はだいたい、戦法としても特攻隊というものが好きであった。人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能方策を傾けて戦う以外に仕方がない。

特攻隊よりも遥にみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングルに、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ。戦争は呪うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然し、特攻隊はともかく可憐な花であったと私は思う。

人の子を死へ馳りたてることは怖るべき罪悪であるが、これも戦争である以上は、死ぬるは同じ、やむを得ぬ。

日本軍の作戦の幼稚さは言語同断で、工業力と作戦との結び方すら組織的に計画されてはおらず、有力なる新兵器もなく、ともかく最も独創的な新兵器といえば、それが特攻隊であった。

特攻隊は兵隊ではなく、兵器である。工業力をおぎなうための最も簡便な工程の操縦器であり計器であった。

彼らは自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否、その大部分が途中に射ち落されてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の栄誉ある姿と見てやりたい。

我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。

私は無償の行為というものを最高の人の姿と見るのであるが、日本流にはまぎれもなく例の滅私奉公で、戦争中は合言葉に至極簡単に言いすてていたが、こんなことが百万人の一人もできるものではないのである。他のためにいのちをすてる、戦争は凡人を駈って至極簡単に奇蹟を行わせた。

強要せられたる結果とは云え、凡人も亦かかる崇高な偉業を成就しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於て、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。

私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩苦悶とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。

青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。(青空文庫より転載)



特攻同期の桜
特攻証言集「国破れても国は滅びず」1
特攻証言集「国破れても国は滅びず」2
4/14道新「戦争体験を正しく伝える会」山口会長掲載記事
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北海道が危うい!ロシアの軍事脅威体験記:西田譲前千葉県議
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☆本紹介☆

胡耀邦はなぜあれほどの親日家だったか
   蒋介石は日本の軍人を一貫して敬愛し、畏怖していた

黄文雄『日本人こそ知っておくべき 世界を号泣させた日本人』
 (徳間書店

 まだ五万人ほどの台湾軍人が駐屯していた時代に金門へ行ったことがある。全島が軍事要塞。あちこちに歩哨が立ち、神経が張り詰め、ぴりぴりしていた。島の裏側に潜水艦基地があり、そこも見学し、洞窟の中で食事をした。わずか三、四キロ沖合が大陸の厦門市である。双眼鏡から厦門の砲台が見えた。
 それから数年して(ということは二十年前あたりか)村松剛氏と台湾へ行った折、金門へ行く予定だったが濃霧のため飛行機が飛ばなかった。
 八年ほど前にまた金門へいく機会があった。
 驚いた。軍人は数千人規模に減っており、緊張感はゼロに近いばかりか、厦門との間にフェリーが往来し、すっかり観光拠点化していたのだ。軍人相手のバアも、ゲーム屋も大方は店じまい、替わりにグルメの海鮮レストランが花盛りだった。そのおり金門の県知事にあうと、「近未来に金門と厦門に橋を架けて繋がる」と発言したので、また驚かされた(馬英九政権はこの橋梁プロジェクトに前向き)。
 直後に今度は福建省厦門へ行った折、コロンス島から反対に双眼鏡で金門を見た。ドイツの砲台跡の戦争記念館にも大きな双眼鏡があって、ここから見ると金門を警備する台湾兵士の表情まで見えるので、またまた驚かされる。
 さて。
 1949年、金門の古寧頭に毛沢東は一個師団の上陸を命じた。共産軍は100隻のジャンク船で上陸作戦を展開するが、台湾軍によって殲滅され、以後、中国は台湾軍事作戦を諦めた。
ただし金門を挟んでの国共内戦の終幕版=砲撃戦は長期にわたって続けられ、石原裕次郎主演で映画にもなった。読売新聞記者が砲弾にあたって死亡する事件もおきた。古寧頭記念館へ行くと、その展示もあった。
だが当時もいまも古寧頭記念館で一言も触れられていない「事実」がある。
 それはこの毛利vs陶の厳島戦争のような、敵をいちど上陸させて殲滅するという、きわどい軍事作戦を立案し、蔭で台湾軍を指導したのが日本の軍人=根本博中将であったことだ。
近年、門田隆将氏がノンフィクション(『この命、義に捧ぐ』、集英社)を書いて、ようやく人々の知るところとなった。
 また蒋介石の要請に応じ、中華民国の軍隊を整備し教育し立て直すために、日本の軍人が協力を惜しまなかった。それが「白団」。
 他方、林彪や膨真から口説かれて、戦後の中国空軍をたちあげたのはほかならぬ日本の航空隊である。林弥一郎以下300名は瀋陽の東南で捕虜となったが、林彪の懇請を受け、新中国誕生の陣痛期にあたると解釈し、パイロット、整備士、管制官などを養成した。いま、この記念館が訓練学校のあった黒竜江省密山市に建てられており、昨春、高山正之氏らと現地に見学に行った。当時の飛行機の実物大模型が数機飾ってあった。
 さてさて、本書はこういう知られざる日本人の物語である。それも近年は誰もかたることがなかった熱烈な日本人の熱血である。
 歴史家=黄文雄の眼光がするどく随所に目配りされている。
 胡耀邦がなぜあれほどの親日家だったか?
 それは彼が当時の日本人医師の献身的努力によって命を救われたことがあるからである。稗田憲太郎は張家口中央委学院の院長として赴任し、わずか三ヶ月後の終戦により共産軍の医師とならざるを得なかった。
当該医学院は接収され「ベチューン医学院」と改称された。ベチューンはカナダ人医師だが毛沢東に気に入られ、記念病院が作られる。稗田憲太郎は、その医学院の中心人物として「病理学、寄生虫学、組織細胞学、解剖学」などを教え、多くの医者を育てたのだ。稗田の活躍で多くの中国人が救われた。稗田は1953年に帰国し久留米大学医学部長、日本学術院会員。1971年逝去。
 1984年に胡耀邦が来日して、未亡人と娘等を中国大使館のレセプションにまねいたことがある。そのとき胡耀邦がこう言ったのだ。
「1946年にベチューン医学院に入院したとき、稗田医師の治療を受けた。わたしも子供もその恩を忘れることができません」
 このような知られざる日本人の活躍が満載され、ぐいぐいと勇気が湧いてくる本になっている。
(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成24年4月10日通巻第3619号より)
2012.04.12 super hero
super-hero-video.jpg
スーパーヒーロー
ここは任せて 君は急いで逃げろ
家族とともに 遠くの町へ
心配しないで 世界は終わらないよ
僕らが必ず守るから
パパ ママ 友達 みんな守るから
テレビも ラジオも インターネットも報じない
正義の味方が この町にやってきた
白いマスクで 顔を隠して
瓦礫の海も 廃墟と化した町も
人の力で再生できる
だけど命は 神さまも治せないから
なにより大切にしなくちゃね
お金や利権と 比べちゃダメだよ
子供の未来は大人の手のひらの中
ピンチの時こそ 強くなれ 強くなれ
見えない悪と立ち向かうんだ
いま矛先を向けるべき敵は一体どこだ?
あぶり出せ
他人か?大いなる組織か?いいや 違うだろう
きっと きっと 僕らの中にいるんだろう
正しいものなら本当は誰もが知ってる
正義の味方に君もなれる なれる
子供の未来は大人の手のひらの中
ピンチの時こそ 強くなれ 強くなれ
見えない悪と立ち向かうんだ  
    
(Youtubeより引用)
軍艦旗
「十二月八日」   高村光太郎            

記憶せよ 十二月八日 この日世界の歴史あらたまる

アングロサクソンの主権 この日東亜の陸と海に否定さる

否定するものは彼等のジャパン 眇たる東海の国にして

また神の国たる日本なり そを治しめたまふ明津御神なり
 
世界の富を壟断するもの 強豪英米一族の力 われらの国に於て否定さる

われらの否定は義による 東亜を東亜にかえせというのみ

彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり われらまさにその爪牙を摧(くだ)かんとす

われら自らの力を養いてひとたび起つ 老弱男女みな兵なり

大敵非にさとるに至るまでわれらは戦う

世界の歴史を両断する 十二月八日を記憶せよ


資料:真珠湾-12月8日を記憶せよ
士魂部隊

8月18日は「千島占守島攻防戦」の日
千島占守島は、千島列島の最北端に位置する、昭和20年ポツダム宣言を受諾した3日後に戦後日本の運命を左右するような戦いがあった。占守島攻防戦です。8月18日、ソ連軍は武装解除の準備をしていた日本側の停戦交渉に応じず、砲撃しながら竹田浜に不法上陸した。池田末男連隊長率いる戦車第11連隊(士魂部隊)は応戦したが、池田大佐、丹生勝文指揮班長、緒方静雄副官以下、各中隊長を含む数百名が戦死した。その後、ソ連と停戦協定が成立するが、もし彼らの善戦がなければ北海道はソ連に占領され、日本は朝鮮のように南北に分断されていたかもしれない。

占守島が日本人に関心を抱くようになったのは、明治天皇の勅を奉じて千島調査をおこなった片岡利和(1836-1908)が嚆矢である。本名・那須盛馬は、土佐藩士・永野源三郎の二男。元治元年8月14日、田中光顕らと脱藩。維新後、片岡利和と名前を変え、新政府に出仕し、明治2年2月には東京府小参事、侍従となり明治天皇からも信頼も厚く、相撲の相手を努めたというそうである。明治24年11月には、天皇の勅を奉じて択捉島を渡って越冬、翌年には占守島に到着している。これが契機となって、岡本監輔(11839-1904)や関熊太郎らが千島議会を設立して、明治25年、帆船「占守丸」で千島開拓を試みている。さらに郡司成忠海軍大尉と退役陸軍中尉白瀬矗らが報効義会を設立し、占守島に上陸している。

(ケぺル先生のブログ2010/8/18より転載)
                        資料 北方領土
千島歴史
北千島占守島の戦い(日本軍最後の戦い)占守島守備部隊戦死者の遺族の方のホームページ
『週刊新潮』平成23年8月26日号より
「週刊新潮」8月26号
昭和20年8月15日、人々が戦争の惨禍から解放された終戦の日。
だが、その2日後に始まった「戦争」があることを知る人は少ない。
この不可解な戦いを小説、ノンフィクションで描き出した2人の作家が、「占守(シュムシュ)島攻防戦」とは何だったのかを語り合った。

「終戦」から2日が経過した昭和20年8月17日深夜。
最北の日本領、千島列島・占守(シュムシュ)島に、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が突如、攻め入った。
3日間に及ぶ戦闘で日本軍600名以上の戦死者、ソ連軍3000名以上の死傷者を出したこの島は、「もうひとつの硫黄島」とも呼ばれる。

それから65年を経た今夏、この戦いを見つめた2つの著作が出版された。
ひとつは、図らずもこの悲劇に巻き込まれていく軍人や家族らの群像劇を描いた浅田次郎氏(58)の小説『終わらざる夏』(集英社)。

もうひとつが、生存者の証言と膨大な記録から激闘を再現した大野芳(かおる)氏(69)のノンフィクション『8月17日、ソ連軍上陸す最果ての要衝・占守島攻防記』(新劇文庫)。

その著者2人が、「終戦後に始まった戦争」占守島攻防戦について語り合った。

浅田 僕がこの戦いについて初めて知ったのは、40年前のことです。
当時、僕は陸上自衛官でしたが、戦史の講義で教官が本当に声涙倶(とも)に下るといった熱弁で教えてくれたんですよ。
同じ国を守る人間として、共感するところが強かったんでしょう。それが頭にこびりついて、いつか書いてみようと思っていました。
書店で見つけた資料を賀いためたりはしていたんですが、なかなか書き出せなかった。
そのうちに時が流れ、やはり戦争経験者がご存命のうちに書かないと意味がないと思ったんですね。それが、時代を引き継いでいく人間の役目だと思うので。

大野 僕もこの話は全く知りませんでしたが、ある雑誌編集者から提案があって、昭和54年に一度取材を始めたんです。

浅田 ああ、ずいぶん早かったんですね。

大野 はい。それが途中で頓挫しちやったんですよ。でも、浅田さんと同じく資料を買い集めて読んでいたら、取材で実際に聞いた話と違っていたりして、ずっと気になっていた。
たまたま3年前、新潮社の編集者にそんな話をしたら興味を持ってくれて、全国の関係者を北海道からもう一度訪ね歩いたんです。

北千島慰霊の会の人たちが集めた証言も丹念に読みました。それによって、この戦いの実像がかなり分かりました。

浅田 ソ連側の戦史を見ると、大きな軍艦や輸送船で来たわけではなくて、いろんな種類の小型舟艇で来たんですよね。

大野 そうですね。1500~1600トンクラスの哨戒艦2隻と機雷敷設艦など、おそらくまともな軍艦は3、4隻程度です。あとは種々雑多な船を集めて54隻。

浅田 漁船や機帆船(内燃機関を積んだ帆船)まであったという。その辺が、僕は奇妙な話だなと思ってね。攻撃部隊として、そんなことがありうるだろうか?

大野 兵隊もかなり無理してカムチャッカで集めてるんです。14、15歳から50歳まで徴兵して、なんとか頭数を揃えた。

浅田 ということは、上陸部隊8000人というのは、作戦計画通りというより、それしか集められなかったということですか。

大野 そうなんです。南隣する幌筵(パラムシル)島とあわせて2万3000人を擁する日本軍に対して明らかに劣勢です。それでも作戦を決行したところにソ連側の焦りのようなものを感じます。

浅田 日本側に一個連隊という強力な戦車部隊がいることもソ連は事前に知っていたはずです。これは僕の自衛隊での経験なんですが、戦車の戦闘力というのは実に強大で、演習で敵の戦車が一両現れたら、歩兵一個小隊(30~40人)ぐらいは全滅とみなされるんです。

大野 一個小隊、ですか。

浅田 もちろん歩兵部隊は対戦車砲を待っていますが、戦車の側面の弱いところを正確に狙い撃つか、よほど至近距離での待ち伏せ攻撃をするかしないと撃破できない。それが陸戦の常識とされていたんです。
戦車に対抗しうるのは戦車のみ。戦車一個連隊がいるところに対戦車砲部隊だけが来るというのは、これは無理がある。
だから、僕は占守島上陸部隊に求められたのは、戦果というより戦死者の数だった、彼らは戦後の千島列島領有を見据えたスターリンの「人柱」だったという説をとったんです。

大野 実際、スラヴィンスキーという戦後ロシアの歴史家によれば、まだ日露戦争で失った樺太と、千島を手に入れてない、8月15日の時点で戦争を終わらせるわけにはいかない、というのがスターリンの意図だったというんです。
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