2017.03.16 sympathy
ゆるキャラ

↓どこか似てません? 共感?共鳴?  ”歴史教育不在の集団”の証!
 
紅衛兵
2013.11.10 食材虚偽表示
食材虚偽表示」は明治維新の負の遺産か?
護るものを失っている日本人が・・・・・・。
タイヤ屋の☆の数に一喜一憂し
低学年より外国語学習とか益々脳内味覚音痴が増えるのではと心配している。
で、下記ブログが目に付いた。

 雪嶺の代表作は、「真善美日本人」と「偽悪醜日本人」である。 「真善美日本人」と「偽悪醜日本人」は、その題において対になっているが、構成は必ずしも対になっているわけではない。「真善美日本人」は日本人の美質について述べているというよりも、日本の伝統的特質、つまり国粋を述べているというべきである。それに変わって「偽悪醜日本人」は、日本人の醜さについて論じたものである。その中には、「美質のみを知っていることは悪である」という思想が背後にある。我われは、特に愛国者であればあるほど日本人の醜態に目を背けてしまいがちであるが、逆に醜さを知ることもまた、愛国の本義とも言うべきものなのかもしれない。本当の愛情とは、相手の欠点を全て受け入れるところにあると思う。日本についてもまた然り。

 偽として、日本学術会の醜さを挙げている。優秀な少年に対し、父親が知らぬくせに学術に容喙してきたり、または朋友が悪い遊びに誘い込もうとすることで、有望な人材を積んでいることを嘆いている。また、教師がみな官吏であることを、文部大臣の意向に背けないとして非常に嘆いている。ちなみに雪嶺は、大の官吏嫌いである。また、現実の階級差が、学術会の出世に絡むことを非常に嫌っているのだ。学術会は、政府に反抗する志もなく、御用学者の養成所のようになってしまっている。学者が従うべきは学問の道理であり、世俗の名声など、それ以外のいかなるものにも媚びてはならないと主張している。

 悪として、正義を心に抱かないことを主張する。正義ではなく、時流や強者に尾を振って媚びる。文明開化となればすぐ掌を返して文明開化に熱狂する。海外の文物を導入することに必死になり、国内興隆に目を向けない。結果山間に海外の贅沢品をそのまま持ち込み、地方の特産物を軽視し、経済を疲弊させる。調和を考えず、商人は公益と称して己の利益を増大させることに熱中している。努力を軽視し、貧民を軽んじ、巧言やお世辞が上手いものだけがいい思いをする。いかに彼ら豪商が華美な装束をまとい、豪華絢爛な住まいに身をおき、洋行を自慢しようとも、彼らは卑しい人種である。彼らを排撃し、社会に重きをおかせないようにすべきだと述べている。米国流の拝金主義に乗っかり、個人の利害に汲々として、公共の大事は腐敗を究めるのである。士族の風尚美徳と、公共のために死を視る精神により維新は誕生したのであるから、士族を重きにおくべきである。

 醜は以下のようである。男女は軽薄になり、女子は自分を絶世の美女か何かと思い、光物に夢中になり、外部から見れば、その見かけの卑しさといい、精神の貧しさといい、吐き気を催すようだ。男子はあろうことか、女子のそういう行動を軽薄な甘言を用いて絶賛するのである。高価な美術品を集めながら、その美術的価値には興味も持たず、ただ自身に高級感を持たすためだけにそれらの収集に狂うのである。文章も練らず、趣向も練らず、思想にいたっては下劣な短編小説を読んだだけにもかかわらず利口気に批評して見せる。己の外観のみの美しさに狂い、その中身は非常に堕落するのである。美の観念など思いも致さないのである。古来事物の精神に通じないくせに先人をなめて、意思も観念もなくただ華美な作品を作り自らを誇るのである。そしてその結果が欧米の安直な模倣なのである。子供が大人の真似をするような賤劣な模倣である。欧米の文物を入れることは急務であるが、それが卑しき自文化への卑下となってはならない。そうなれば日本はただの劣等な欧米に成り下がるであろう。

 以上は雪嶺の言っていることの要約に過ぎない。しかしこれが現代にも通用するものがあまりにも多いことに気づく。ここまで口汚く罵られてはかなわないと言えなくもないが、しかし現代にも共通する日本人の醜さである。
(歴史と日本人―明日へのとびら― http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/52074640.html より)
・・・・・・・
追加
“偽”や“醜”はうわっつらに流れて真実を失った学問や芸術への、“悪”は私利を第一として士風の矜持を失った社会風潮への批判である。とりわけ、欧米文化を直輸入して事足れりとする風潮に舌鋒が鋭く向けられる。次の引用をみると、“和魂洋才”“東洋道徳西洋芸”のような発想と言えるか。
「おおよそ社会の事物たる、他を模倣せんよりは、自家固有の特質を発達せしむるの優たることあり。けだし我が国固有の風俗たる、いずくんぞことごとく抹殺すべきものならんや。そもそも外事を取りて、これを用いんことあえて排難すべきにあらずといえども、そのこれをなさんにはあらかじめ守るところなかるべからず。すわなち明らかに我を主とし、彼を客とするの本領を確保し、彼やただ取りてもって我の発達を裨補せしむるの用に供すべきのみ。はじめより汲々乎として模倣これ務む、いずくんぞその可なるを知らん。」(139ページ)
ドミニック・ヴェネールの自決と三島由紀夫
竹本忠雄氏から緊急寄稿
 去る5月21日、午後4時頃、パリのノートルダム大聖堂の中で、著名なフランス人作家、ドミニック・ヴェネール氏が、「同胞を惰眠から目覚ませんとして」ピストル自殺を遂げた。日本の新聞では単に「極右の作家が自殺した」の1行で片付けられたにすぎないが、その背景は文明論的に深い。誰よりも彼は「日本の三島」を尊敬していた。
そのことは彼の主宰するポピュラーな『新歴史評論』(NRH)誌をつうじて表明されたことがあったし、またそれは、たしか、この「早読み」ブログにも紹介されたように思われるので、われわれとはまったく無縁というわけではない。よって、以下、事件を略記して伝えたい。

 事は、1500人の参詣者の詰めかけた大聖堂内の祭壇前で起こった。78歳の老作家はベルギー製のピストルで口腔内を打ち抜いて果てた。祭壇前のテーブルに1通の遺書が見つかった。騒然とする群衆を退去させ、憂国まで大聖堂を閉鎖するなか、大司祭が駆けつけて遺書を開くと、こうあった。
 「私は心身ともに健全、かつ妻子を愛する者だが、我が祖国ならびにヨーロッパの危機甚大なるを見て、一身を捧げて同胞を惰眠より覚醒せしめんと欲する。悠遠の昔より民族の至聖の場であったパリのノートルダム大聖堂を死に場所として選ぶ…」
 このような書き出しで、次に自決の理由が述べられているが、やや抽象的で一般には分かりつらい。最後に、詳しくは最近の拙著、並びに遺著を参照せられたいとして、この遺著の名を挙げている。『西洋のサムライ――反逆者血書』(Un Samourai d'Occident. Le breviaire des insoumis)とでも訳せようか。

 自決の前々夜、5月21日にヴェネール氏が自分のブログに発表した声明も公表された。
そこには死の理由について、「我らの抗議は、単に同性婚への反対に留まらず。フランスならびにヨーロッパの民族大置換という真の文明的危機に抗するものなり」と記されている。
「民族大置換」とは、「フランス国民を外国人によって大がかりに入れ替えること」を意味する。第三国人の大量移入、子沢山による生活保護増大、財政逼迫は、キリスト教信仰と文化的独自性の喪失とも結びつき、多年、フランス国民の危機感と憤懣をつのらせてきた。この5月18日に布告されたばかりの「同性結婚法」だけでも、いま、国論を両断し、沸騰させている。「第1回ゲイ・プライド」集会が5月25日以後、トゥール市、ディジョン市と広がりつつある一方、これに抗して26日には数十万規模の反対デモがパリを中心に展開されている最中なのである。

 日本の大新聞は、こうした事変の更に奧にある西洋文明の恥部について、まったく把握の努力がなされていない。ここでは、2001年5月に、「タウビア法」が施行され、アフリカ黒人に対する奴隷制を「対人類犯罪」として断罪したこと、それに悪乗りする形で「同性婚」も法制化されるに至ったことを記すに留める。
さらに云えば、ここに云う「対人類犯罪」は、東京裁判で日本を断罪したのと同じコンセプトであり、フランスではこれを事実無根の「南京大虐殺」にも当てはめようとした経緯のあることを喚起する必要があろう。現下のフランス社会の動乱は、「反日」の世界的現象とも見えないところで繋がっているのである。

 もう一つ、特に、内的な要因をも見過ごしならない。ドミニック・ヴェネールの遺書には、前記の6月刊行予定、『西洋のサムライ――反逆者血書』の出版社主としてP‐G・ルーの名が記されている。このルー氏が、著者自決後にAFP通信よりこう声明を発しているのだ。
 「ドミニック・ヴェネールは、武器研究の一人者であり、全11巻の『世界武器百科事典』の著者である。騎士道に強い憧憬を持ち、自決した作家、ドリユー・ラ・ロシェル、モンテルラン、三島由紀夫を尊敬していた。中でも、ノートルダム大聖堂を死に場所に選んだことは、その行為の意味を、1970年に自刃した日本の作家、三島に最も象徴的に近づけるものである」。
 武士の魂の宿る場として三島が選んだ自衛隊司令部と、祈りの中心、パリのノートルダム寺とでは、一見、まったく性質の相異なるものである。が、騎士の勇気と祈りがむすびついて騎士道が生まれた史実を考えるなら、自決者ヴェネールの心底が分からないでもない。
もちろん、「聖堂を穢した」との信徒の声も挙がってはいるが。大司教も、「彼は信徒ではない」と釘をさした。が、その日の夕祷において、「この死者の救霊のためにも祈りましょう」と述べているのが印象ふかかった。

 ドミニック・ヴェネールは、自らを「反逆者」として定義してきた男である。短い遺書にもこの語が4回も使われている。未成年の頃にアルジェリア戦争で、ドゴールの政府軍に敵対するOAS(秘密軍事組織)に加わって戦った。1962年、投獄中に著した『実践批評論』をもって、アルジェリア戦争後意気消沈した極右の指導原理を打ち立て、さらに「文化闘争」の旗幟を鮮明にして「新右翼」の創始者と仰がれた。
1970年、「三島事件」に接して発憤、運動を大躍進せしめて、2年後、フロン・ナシオナル(国民戦線)党の創設にあたってその党首候補に推された。実際に党首となったのはル・ペン氏だったが。現在はその娘、マリーヌ・ル・ペンが後を継いでいる。ちなみに、マリーヌは、ヴェネールの訃報に接して、「彼の自決はフランス国民を覚醒せしめようとした高度に政治的なもの」とのオマージュを呈している。
 
われわれ日本人にとっては、このような人物が如何にして日本の「ミシマ」に心酔するに至ったか、その内的プロセスは大いに興味ふかいところである。今度の事件にさいしてフランス中を出回っているブログの中には、ヴェネールが座右銘とした
 《死は、放射能となって、未来に対して働きつづける》
 という三島の言葉をエピグラフとして掲げたものが多い。
 実は、これは、彼が主幹である『新歴史評論』2007年7-8月号に載った彼と私の対話の中で私が伝えたものだった。彼は若い女性秘書をつれてパリ14区の拙宅にやってきた。そのとき、私は、ヴェネールに尋ねたものだった。
 「あなたがたフランス人は、なぜ、そんなにも三島に夢中になるのですか」と。
 「さあ、それは…」と彼は端正な顔を緊張させた。そして一言だけ、こう応じた。「それは、大問題だ…」
 私には、どうも、ドミニックの死が、行為をもってそのときの問いに答えようとしたもののように思えてならないのである。竹本忠雄
【「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成25年5月28日(火曜日)】
大江く~んへ!!
PM2.5を掃きだす迷惑な隣国への「再入国禁止付移住」を強くお奨めします!!

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――mens fada in corpora salop・・・狂った精神は汚れた身体に宿る     
『ロラン・バルト 中国旅行ノート』(ロラン・バルト 筑摩書房 2011年)
 ▽
 記号論、構造主義で知られたフランスの哲学者・批評家の著者(Roland Barthes:1915年~80年)は新左翼華やかなりし当時、フランス共産党に反対し、ソ連を修正主義と批判していた。我が国にも蔓延っていた無責任な新左翼にとっては、ゴ本尊サマだった。

 1974年、そんなロラン・バルトが数人の仲間と共に、在仏中国大使館の招きに応じ、毛沢東思想原理主義を掲げた四人組が猛威を振るっていた文革末期の中国を旅行する。「現地の中国人との接触が持たれないように、旅行コースはあらかじめ決められ、添乗員・通訳が常に同伴する上に、参加者が各自費用を負担するという旅行計画であった」(「訳者あとがき」)そうな。
4月11日から5月4日の間、上海、南京、洛陽、西安、北京と回っている。この本は、その間の旅行ノートだが、興味深い記述をいくつか・・・。

 ■林彪、事あるごとに利用されるスケープゴート。
■いつでもどこでも重要なのは、ただ官僚制(階級制度、区分)が日常的・全体的に再興しているという問題である。
■(ある工場で)日が照っているにもかかわらず、ここは陰鬱だ。1日8時間? 彼女たちは汚らしい。そして口を開かない。

■(同じく工場で)趙は言った:「昔、女性は家で家事を行う道具でした。現在(頭を仕事場の方に向けて)彼女たちは自由の身になったのです。お金のためではなく、解放のために、社会主義の確立のために」。

■趙のおきまりの格言:中国体操:身体と精神のため。わたしならmens fada in corpora salopと言う方が好きだ。/mens・・・の意味は「狂った精神は汚れた身体に宿る」
■感謝の常套句、過去の常套句。〔これは、貧しい者たちのテーマ〕。
■人民公社の責任者、かなり怪しい人物:真の指導者、責任者の振る舞い――それがおそらくは権威である

■襞のない国。風景は文化に仕立て上げられていない(土地の耕作を除いて):歴史を物語るものは何もない。・・・風景はだんだん素っ気ないものになる。味気のない国。/訳者は「cultureには「耕作」と「文化」の2つの意味がある」と注記する。

■すべてが中華思想。他国にも同様にさまざまな社会や村落がありうるという考えは全くない。民俗学はもみ消されている。比較研究は皆無。
■中華社会主義思想:すべては愛する公社、原始的な集産主義への嗜好。
■2人の若い労働者がいるテーブルにつく。彼らはとても清潔で、細い手をしており(《修理工》だろうか?)・・・ここの《労働者》は皆、細くて清潔な手をしている。
 
この中国旅行の10年程前、大躍進の飢餓地獄に苦しんでいたはずの中国に招待された日本文学代表団に参加した若き日の大江健三郎は、「僕がこの中国旅行でえた、最も重要な印象は、この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっているということだ。
・・・ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた。・・・一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」と感涙に咽んだ。

 
毛沢東=共産党政治の詐術に、大江は「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ」と見事に引っかかる。
だが、同じ招待を受けながらもロラン・バルトは「細くて清潔な手」な《労働者》に疑念を抱く。新左翼とはいえ、さすがにゴ本尊サマだ。“眼力”が違う。それにひきかえ情けないのが大江だ。
やはり目は節穴だった。
樋泉克夫のコラム【知道中国 869回】
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成25年3月4日 通巻第3891号より  
『腐敗した儒者が左翼だが、そうしたニッポンジンの夥しきは
グローバリズムとか規制撤廃とかの怪しげな米国製思想に洗脳されたからである』


西部邁『どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由』(幻戯書房)宮崎正弘書評
 「快刀乱麻を斬る」というより「妖刀乱麻を斬る」ですかね。いささか長い題名だが、中味はまさに腐敗儒者=左翼への挑戦状である。
 基本的に左翼は思考停止の愚か者が多いという指摘は正確ではないのか。
 文中にでてくる、その豊饒な語彙力と多彩な比喩力による辛辣批評を展開させて、この人の右に出る批評家はいない。言葉の原義、その語彙の魔力と同一視反応、その魅力と愚かさと明瞭に提示する。そしてそれを悪用するのが左翼だ。
極左のノーム・チョムスキーが唱えた「一般意味論」は逆説的に言えば、言葉によっていかに相手を騙すかのテクニックである。
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